はい! 奈央です。
日本で初めて時計を作ったのは、『日本書紀』に記されている天智天皇の水時計(漏尅・漏刻:ろうこく)と伝わっています。
【日本書紀】
斉明天皇6年(660年)5月 (後飛鳥岡本宮遷都から4年後)
有皇太子初造漏剋。使民知時。
[意]
天智天皇が太子のときに漏刻をつくり民に時刻を知らせた。
【日本書紀】
天智天皇10年(671年)4月25日 (近江大津京遷都から4年後)
置漏剋於新臺。始打候時。動鍾鼓。始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時、始親所製造也。云々。
[意]
漏尅を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲(ましま)す時に、始めて親(みづか)ら製造(つく)りたまふ所なりと、云々
桜井養仙『漏刻説』掲載の漏刻図(享保17年=1732年)
近江神宮HPよりお借りしました。
始めて候時を打った日、671年、天智天皇10年4月25日は、ユリウス暦では671年6月7日ですが、なぜか1582年に制定されたグレコリオ暦での671年6月10日が採用され、6月10日が「時の記念日」となっています。
つまり、本来、1582年10月以前にはあり得ないグレゴリオ暦の日付を671年まで逆算して求めたということですが、それは、歴史学的には合理性に欠けるように思えますね。
漏刻とは
中国では、紀元前から漏刻がありました。実物として残っている前漢の例は、底に近い側面に出水管のついた銅製の壺で、壺内の水が滅ることによって、時間の目盛を刻んだ箭(や、せん)が下がります。
陝西省興平県出土の漏刻
ASUKA HISTRICAL MUSEUM Fan Club HPよりお借りしました。
しかし、これでは、水位が下がると水圧も滅るために出水量が滅少し、時計として遅れることになります。
そこで、前漢末頃になると、箭を水を出す壺(漏壺)から別の壺に移し、上下の位置関係に置きました。
上の漏壺から出た水を下の箭がはいった壺(箭壺)が受け、箭が上がるようになりました。
ここで、漏壺と刻箭という2つの要素から成ることになり、漏壺の漏と刻箭の刻をとって、漏刻というようになりました。
しかし、漏壺の水位が下がれば箭壺へ流入する水量が滅ってしまいます。そこで、上の壺に水が流出した分だけ補充する、さらにもう一段上に壺を置くというように、その後の漏刻の進化は、漏壺を増やしていく方向に進みました。
二段式漏壺を最初に作ったのは、後漢の張衡で、2世紀初めのことでした。4世紀、360年頃には、東晋の孫棹(314~371年)が漏壺を三段式に改良し、唐代(618~907年)になると、呂才(?~665年)によって四段式漏壺が作られました。
呂才が作った水時計の図が残されています。
唐呂才定四柜式漏刻
GONTAのブログよりお借りしました。
全部で5つの水槽から成り、上から夜天池、日天池、平壺、萬分壺と名づけられた4つの階段状に並んだ直方体の水槽(漏壺)と水海という円筒形の水槽(箭壺)とに分けられます。水海には人形がいて、その掌の中には一定間隔に時刻を刻んだ箭が通っています。
それぞれの水槽は、サイフォン管によってつながれており、水は一番上の夜天池からサイフォン管を通り、日天池、平壺、萬分壺を経て水海に流入します。
そして、水海の箭が浮上し、人形が指差すところによって時刻がわかるという仕組みです。
ここで、夜天池から萬分壺までは、水海に流入する水量を常に一定にするためにあります。
箭が一定の速度で浮上するように萬分壺から水海への流入量を一定に保つためには、萬分壺の水圧、つまり、水面の高さを常に一定にすればよいわけです。
夜天池に適当な間隔で水を補給すれば、水海の水位は、時間の経過とともに一定の速度で上昇し、その結果、箭が等速度で浮上するのです。
また、サイフォン管を用いれば、水面が波立って、水面高が不安定になるのを防ぐばかりでなく、水の流量も少なくてすむので、長い時間を計ることができるのです。
サイフォンを利用した水時計
ASUKA HISTRICAL MUSEUM Fan Club HPよりお借りしました。
以上、簡単に述べてしまいましたが、ここに大きな問題点が2つあると思います。
それは、次の2点です。
①唐代初期にサイフォン管が容易に入手できたのか?)
②夜天池に適当な間隔で水を補給
(結局、人力での時間管理が必要?
先ず第一の問題点:
①唐代初期にサイフォン管が容易に入手できたのか?)
これについては、既に一般化したと考えられる青銅器の鋳造技術、あるいは鍛造技術によって可能だと思います。
次に、第二の問題点:
②夜天池に適当な間隔で水を補給
(結局、人力での時間管理が必要?
天智天皇が自ら作られたという漏刻も中国から伝わった知識のもとに日本で作られたと考えられています。
それらはどのようなものだったのか?
この時の漏刻がどのようなものであったのか、文献には全く記載がないそうです。
飛鳥の水落遺跡は斉明朝の漏刻の跡ではないかとされていますが、漏刻そのものが出土しているわけではありません。
近江神宮の漏刻
近江神宮HPよりお借りしました。
飛鳥水落遺跡
古都飛鳥保存財団HPよりお借りしました。
飛鳥資料館『飛鳥の水時計』掲載の漏刻台想像図
近江神宮HPよりお借りしました。
漏刻は水の流れ方が一定であることを利用したものです。
しかし、当時は現代のような水道水があるわけではないので、不純物が混じって導水管が詰まったり、流入速度が変ったり、あるいは冬期の凍結防止など、また夜間の運用のための灯明と監視役なども置かれたようです。
また、2つ以上の漏刻を比較したり、日時計によって南中時を知り誤差を補正したようで、その運用はなかなか難儀なことであったことが文献からもうかがわれます。
現代人がいろいろな想像図を描いたり、あるいは復刻したりしていますが、現実的でないことが古代の人々にもわかっていたと思います。
下の図は、私、奈央が想像した漏刻です。
オーバーフローを活用することで、川の流水や泉の湧水を利用して、自動的に一定流量・流速を得ることができるはずです。
こんな簡単なアイデアは、誰でも思いつくことができるはずと思っていたら、やはり、先人がおられましたね。
下の図は、中国の清代乾隆帝9年(1744年)に製造された漏刻です。
この装置の平水壺は、まさしくオーバーフローを利用して一定の高さの水面を確保していると考えられます。
故宮交泰殿に現存する漏壺 清代乾隆9年(1744)製造
成家徹郎、中国における水時計(漏壺)の起源、科学史研究II (1990) より
湧水を利用した漏刻 それこそ泌泉(たぎり)なのです。
次は、筑紫・飛鳥の漏刻をご紹介します。
そして、豊前、つまり泌泉(たぎり)についてレポートしますね。
それじゃあ、またね。