はい! 奈央です。

 

菊池に来て思ったことは、当時の支配権力への反骨の歴史に彩られた土地なんだなあって。

 

菊池武時と後醍醐天皇 と 鎌倉幕府

 

 本殿に向かって、右手に門があり、そこを通って行った先にあるのが 12代 菊池武時 の銅像でした。

 

 1333(元弘3)年12代当主 菊池武時は、鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇綸旨(りんじ)に応え楠木正成新田義貞足利高氏らと同様に、九州における幕府の出先機関である鎮西探題(福岡市博多区)を襲撃しました。

 *綸旨蔵人所が天皇の意を受けて発給する命令文書

 

第96代 後醍醐天皇 

歴史が好きになる!歴史全授業HPよりお借りしました。

 

 菊池武時は、事前に幕府に反感を抱いている少弐氏大友氏と共謀して討入に臨んだのですが、直前になって両氏に裏切られ、援軍が望めないなか、菊池・阿蘇勢わずか70名あまりで作戦を決行しました。

 多勢に無勢の状況下で、武時は自軍の敗退を覚悟し、息子の武重(後の13代)、武光(後の15代)を呼び出して撤退を命じており、この場面は「袖ヶ浦の別れ」として語り継がれています。

 その後、探題館において壮絶な戦いを繰り広げるのですが、寝返った少弐・大友軍に背後を突かれ、突入した武時以下、全員が討死しました

 しかしこの忠節ぶりは後に楠木正成によって高く評価され、後醍醐天皇への進言を得て、13代武重肥後守に任命されるという形で報われました。

 

 535年後の1868年、明治天皇によって、武時、武重、武光主祭神とする菊池神社の祭祀が命じられるのです。

 

 

隈部親永 と 豊臣秀吉・佐々成政

 肥後中世の終焉 肥後国州一揆

 

 肥後の国の守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は、国人割拠状態が続きました。

 

 菊池神社のある「城山」は、菊池本城の跡であり、さらに隈部城の跡でもあります。
 中世菊池氏の本拠地が菊池本城であり、戦国期になって菊池氏が没落した後に、後を襲った隈部氏が新たに築きなおしたのが隈府城だったようです。

 

菊池本城 隈府城 

余湖くんのホームページよりお借りしました。

 

 天正年間(1573-1592年)の一時期、肥後国島津氏の支配下に置かれましたが、天正15年(1587年)5月豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩・大隅に押し戻されました。

 

 天正15年6月52人の肥後国人が、秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれることになりました。

 

佐々成政

DiscoverJapan HPよりお借りしました。

 

 しかし、一刻も早い肥後の領国化を望んだ成政が性急に検地を進めたため国人の不満が爆発したのです。

 天正15年7月六万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていた隈部親永・親泰父子は、秀吉朱印状を盾に検地を拒否して挙兵しました。

 

これが肥後国州一揆なのです。

 

 佐々成政は直ちに7,000人の兵を率いて本拠にしていた隈本城を発し、親永の籠る隈府城を攻撃、これを落城させました。

 

隈部親永像 

武将銅像天国HPよりお借りしました。

 

 隈部親永は息子の親泰の籠る城村城へと逃亡しました。

 佐々成政はこれも包囲しましたが、思いのほか守りが堅く攻略に手こずったのです。

 隈部親永甲斐親英と謀り、国人ら35,000余に兵を挙げさせ、和仁親実・菊池武国らに率いられた一揆軍隈本城を攻囲するに至りました。

 

成政の入居した隈本城 石垣の上にある熊本県立第一高校の敷地周辺にあったとされています。熊本市の古城堀端公園

中日新聞HPよりお借りしました。


 佐々成政城村城を攻めている最中、手薄になった隈本城は危うくなります。

 成政は、城村城に城兵が外に出られないように門に城を築く、いわゆる付城をして、ひそかに隈本城に帰ります

 この時、佐々宗能を影武者に仕立て、植木方面を帰らせる途中、内空閑氏の兵士によって宗能は殺されてしまいます。 

しかし、成政は無事隈本城に帰還します。

 隈本城は落城寸前でしたが、豊臣秀吉人質にとっていた阿蘇大宮寺家の阿蘇惟光、惟義を巧みに利用し、国衆を同士討ちにし、難を逃れます。

 その間、城村城を攻撃していた成政軍の食糧が底をつき成政は、柳川藩の立花宗茂に援軍を頼みます。しかし、成政軍は守勢一方であったため、ついに秀吉に援軍を頼みます

 

 京都で大茶会を催していた秀吉は、急ぎ茶会をとりやめ、肥後国衆一揆勢に対して、九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り込みます。

 それでも、肥後国人衆が立て籠った城村城田中城の攻防は、実に半年にわたって続きました。

 

 秀吉は、「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、徹底的に弾圧しました。

 ついに田中城は落城し和仁一族は討滅され、城村城は停戦開城し、隈部一族は、翌年になって殺されました。

 佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹

秀吉は、加藤清正福島正則らの武将を派遣し、反抗した国衆を処分し、検地、課税額の決定を強行しました。

 国衆一揆の翌年、天正十六年(1588年)肥後の親領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命されました。

 

 かくして肥後の中世を支配してきた国衆のほとんどは滅び去り、肥後の中世は終焉を迎えたのです。

 

加藤清正 

武将ジャパンHPよりお借りしました。

 

 

西郷隆盛 と 明治新政府

 

 昨日のブログでもご紹介したように、西郷隆盛菊池にゆかりの深い人物です。その祖先は菊池一族といわれ、家紋菊池一族と同じ「鷹の羽なんだそうです。

 

 菊池一族の中で最も有名なのは、後醍醐天皇の時代に活躍した12代の菊池武時ですが、その父が隆盛でした。

 

「菊池一族のススメ」パンフレットよりお借りしました。

 元禄年間、菊池一族の子孫の西郷九兵衛という人が現在の菊池市七城町に住んでいました。

 

西郷隆盛祖先発祥の地 菊池市七城町 西郷公民館

KAKU TAXI HPよりお借りしました。

 

 彼は、細川藩の圧政に耐えかねて熊本を逃げ出し、鹿児島の甲突川のほとりに住み着き、郷土として力をつけてきたのです。その六代目菊池一族では三二代目)が吉之助、後の西郷隆盛なのです。

 

西南戦争

 明治維新における廃藩置県後、近代化を急ぐ政府は、秩禄(ちつろく)処分、徴兵制、廃刀令など領主制解体の政策を強行しました。その結果、士族の地位と生活が激変し、多くの氏族が没落しました。

 しかも、維新の功績に慢心した政府高官は、専制的傾向を帯び、腐敗状況も現れたので、士族の反政府気分は高まり、各地で旧士族の反乱が勃発しました。

 西南戦争(西南の役)は、その最大の乱であり、明治維新の立役者である西郷隆盛を大将とした旧薩摩士族を中心とした維新政府への反乱でした。

 

鹿児島の歴史資料館「黎明館」に寄贈してある瀬尾鶴汀(せのおかくてい)が描いた西郷隆盛像

フルーティスト(瀬尾直子、せのおなおこ)の徒然日記よりお借りしました。

 

 明治10年2月22日、熊本城において、そして、3月4日田原坂において、官軍と薩軍の戦闘が始まり、20日まで死闘が続き、薩軍は敗れました。

 3月24日薩軍菊池隈府での守備を決めました。

 西覚寺を陣地本営とし、菊池本城跡などにも陣を敷きました。さらに、宿営所として中町の盆屋や音光寺、広現寺、民家等を当て、西照寺に薩軍病院を置きました。

 

幕末維新庵HPよりお借りしました。

 

 4月10日早朝。大津方面に撤退するまで、戦いは熾烈を極め、多くの戦死者を出しました。

 戦死者は官軍方38名、薩軍方300名近くになり、官軍方の戦死者は城山に埋葬されましたが、薩軍方の戦死者の行方は不分明になっていました。

 115年後(1993年?)薩軍方の戦死者渕園墓地に埋葬されたことが分かりました。

 墓標は楠の木と伝えられています。

 

西南の役菊池の戦い薩軍碑 

幕末維新庵HPよりお借りしました。

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 菊池一族とは、中関白藤原道隆の子、大宰権帥藤原隆家の子孫と伝承されています。

 ここ、菊池を中心に平安から鎌倉、室町時代と450年間にわたり活躍した氏族だそうです。

 

 ここ菊池は、古くから時の権力者の専制・圧政に屈さず、立ち向かうという風土を持っているのでしょうか。

 そういえば、古代において、邪馬台国連合に加わらず、これに対抗した狗奴国をここ菊池に比定する方も多いですよね。

 

 さあ、これからどこに行きましょうか。

 やはり、菊池の基となった 鞠智城 に行かなければなりませんね。

 

それじゃあ、またね。