はい! 奈央です。
今回は鏡山大神社のすぐ隣にある河内王陵のレポートです。
下の地図の南(下)の方、鏡山神社と一緒になってますね。
上の図の香春神社前から鏡山大神社前へと東西に延びる道路が古代の大宰府道の一つ「田河道(たがわどう)」といいます。
鏡山大神社前の石碑
古代官道(田河道(たがわどう))
大和朝廷は、701年(大宝元年)に律令体制を成立し、役人の往来、軍隊の移動、租税や産物の都への運搬に必要な道路網の整備を行った。この道路が官道と呼ばれている。道路には、30里(16㎞)ごとに駅屋(うまや)を置き、駅には食物や宿泊所と馬を備えた。
大宰府から豊前国府(みやこ町)に行くには、玄界灘沿いの大宰府の駅を経て到津(いたむつ)から苅田(かりた)駅を通る道と、内陸部の筑前伏見駅、綱別(つなわき)駅、田河(たがわ)駅、多米(ため)駅を経由していく田河道があった。
田川地域は、関の山鞍部と香春町役場裏の大石様(JR高野踏切)を結ぶ線上にある。夏吉立石付近を通り、ほぼ国道201号線に沿っているが、大石様の所で進路を変え、唐子橋(呉川を渡る)ー鏡山大神社前ー伽藍松ー鏡山村中ー石鍋口ーへと向かう。京都郡への峠越えは石鍋越えと七曲峠の二つに分かれ、どちらも官道と言われている。
奈良時代、万葉集などから企救郡への伝路が分岐しているこの鏡山に駅屋があったと比定されており、後に田川市夏吉方面に移った可能性が高い。また、香春鉱業の工場正面から金辺川(清瀬川)を渡って香春神社に参道が伸びていたとされる。
徒然なか話HPよりお借りしました。
鏡山大神社前には、神功皇后にまつわる伝承や河内王と手持女王(たもちのおおきみ、河内王の妻)にまつわる逸話が伝わっています。
神宮皇后伝説と恋の里・鏡山
今をさかのぼること約1800年の昔、三韓出兵の折、神功皇后は、この鏡山の地で天の神地の神に祈りをささげ、無事帰国されたといわれています。
また近くには皇后が自らの姿を写したと伝えられる「鏡ヶ池」も古跡として今に伝えられ、神話の世界を垣間見ることのできるロマンあふれるいったいです。
皇后が祈りをささげたと伝えられる山には鏡山大神社が祀られ、皇后の必勝祈願のご利益にあやかり、御願成就、受験合格、さらには初志貫徹等の祈りを込めて祈願に訪れる人も多く、近年はパワースポットとしての人気も高まっています。
奈良時代、大宰の帥として赴任途中の皇族・河内王は手持女王と恋に落ち、王の遺言によりこの地に葬られたのが河内王の墓と言われています。王の死を嘆き悲しんだ手持女王は熱い想いを歌に詠み、万葉集の秀歌として今に伝わっています。
鏡山大神社に隣り合う河内王の墓は宮内庁一等陵墓参考地に指定され、歴史的価値も高い古墳ですが、河内王と手持女王のラブロマンスを偲び、ここに訪れる恋人たちも多くなりました。
鏡山大神社のご利益はもちろん、恋愛成就、さらには幸運への出逢いを込めて鍵をかけると思いが叶うといわれ、この地を訪れる人も多くいます。
田川ライオンズクラブ
河内王の墓 勾金陵墓参考地
鏡山大神社のニノ鳥居の横に万葉集の歌碑1があり、そこから延びる道の先に河内王の墓があります。
ほらね! こんな分かりやすい案内板は助かります。
道の先には、香春岳ニノ岳(耳成山)が聳えています。
道を辿っていくと、やがて、河内王陵のある古墳への階段が見えてきました。
ここが、河内王陵なのね。
宮内庁管理の立て札がありました。
ところで、河内王ってどんな人かしら?
河内王(生年不詳 - 持統天皇8年(694年)4月以前)
飛鳥時代の皇族であり、敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子系統の諸王の一人と考えられている。
持統天皇3年(689年)閏8月、筑紫大宰帥に任じられる。
持統天皇8年(694年)4月5日、浄大肆を贈位され、賻物(喪主に送られる葬祭料)を賜っているので、同年3月中に筑紫で客死したのであろう。
『万葉集』巻3・417-419には、王を豊前国鏡山に葬る際、手持女王(王の妻?)の詠んだ挽歌3首が見える。
現在、香春町鏡山に所在する勾金陵墓参考地(河内王陵)は、1894年(明治27年)、当時の宮内省が河内王の墓である可能性を考慮して治定したもの。
でも、小さい陵ね。
昔はもっと盛土があったのでしょう・
横穴室石室の入り口の様なものが見えますね。
ここに眠る河内王を偲ぶ手持女王の歌が万葉集に3首、収録されています。
次回、この手持女王の歌だけでなく、この香春を思って詠まれ万葉集に収録された歌を紹介したいと思います。
理系女の私としては、一番苦手なんですけどね。
それじゃあ、またね。