はい! 奈央です。
今回訪れたのは、射手引(いでびき)神社という所です。
変わった名前でしょ。
射手引神社本殿
場所は、飯塚市街地から南東方向、嘉麻(かま)市上山田というところにあります。
下の地図の⑬上山田というところですね。
福岡神社誌上巻より
【神社名】射手引神社 嘉穂郡山田町大字上山田字杉町
【祭 神】
仲哀天皇、神功皇后、中筒男神
罔象女神、高龗神、手力男神
【由 緒】
当神社は古は貴船宮香椎宮と称し格別の神社なりしが宝暦十年(1760年)11月3日両神社を合併し社殿を改築して一社となし社号を射手引神社と改称せりと御神体背面に記して曰く勧請高雨(以下不明)者霖雨炎(不明)聞神験応最顯孫六矢的国川之里至神像造之云々安元乙丑年(安元乙未ならば、1175年)六月(以下不明)とあり、又一体に罔(摩滅不明)久安元(不明)孫(不明)者とあり手力男神御神体に曰く手力大明神謹請静(不明)給定給云々上村小山(不明)明神云々応永八年(1402年)二月とあり(附記以上三柱の神を貴船宮として勧請せり)香椎宮の御神体に曰く詞志聖母大明神神武運長久国家穏云々中納言隆景(小早川隆景)賽曰云々天正十六年(1588年)11月吉日又一体には天正十六子年11月吉日とあり。
仲筒之男大神の背面に元和三年(1617年)11月吉日とあり(以上三神を香椎宮として勧請せり。
文明十六年(1484年)9月貴船宮祠殿再建あり其棟札に奉再立貴布禰大神宮祠殿一宇云々神主大里右京大夫告文願主上山田村産徒中云々文明十六(1484年)甲辰歳九月吉祥日
享保元年(1716年)石鳥居建設あり其文に香椎宮云々奉創建華表一基筑前州嘉穂郡上山田村大塚助五郎維時享保元甲辰年春三月吉祥日元禄五年(1692年)11月香椎宮社殿再建の棟札あり曰く奉造營香椎聖母大明神槌壇清廟一亭云々願主筑前州嘉穂郡上山田村松岡又次郎同與三郎云々元禄壬申年(1692年)11月吉日宝暦十年(1760年)社殿再建の棟札あり文に奉再興(香椎聖母 貴船神社)祠檀一宇産子中云々祠官大里若狭守藤原吉保云々宝暦十年庚辰年十一月三日願主筑前州嘉穂郡上山田村庄屋松岡甚五郎云々とあり(附記此時より両神社を合併し射手引神社と改称せりと)安永三年(1774年)五月石鳥居建立す文に両神宮云々本郡當邑産子中創立云々祝部大里河内守吉麿云々庄敷松岡彦惣云々安永三年甲午五月吉祥弘化二年福岡藩主当神社を觸悉社に定められ祈願執行仰出られし事も数回にて代参ありて幣帛料を供進せられし事もありき。
明治六年十一月三日村社に列せられる。
明治三十九年六月十一日神殿拝殿改築許可同四十年十月九日落成す願主産子中、昭和四年一月十日郷社に列せらる。
【主なる建造物】
本殿、幣殿、拝殿、神饌所、社務所、鳥居、手水舎
【境内神社】
須賀神社、天神社
よくわかんない!
現代語訳
【御祭神】
旧香椎宮
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后
帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)=仲哀天皇
中筒之男命(なかつつのおのみこと)
旧貴船宮
闇於加美神(くらおかみのかみ)
高於加美神(たかおかみのかみ)
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
【御由緒】
古くは香椎宮・貴船宮と称し各別々の神社で、
香椎宮は尾浦に、貴船宮は柚木に鎮座があったものを、
宝暦10年(1760)11月3日両神社を合祀し、現在地に
社殿を改築し一社となし、社号を射手引神社と改称した。
簡略化し過ぎ!
射手引神社の社名の由来
【社伝】
古処の山麓や当地に住む羽白熊鷲なるもの良民を苛む。
神功皇后これを討伐するおり難渋され給いて、貴船宮の杜にて休らいて 神々の御加護を祈り給う。
雲々の間より光と共に手力雄命 天の射手を率い御加勢給い征伐叶う。
神功皇后 貴船の神々と共に手力雄命を併せ射手引大明神と称して祀り給う。
後に里人 香椎宮より御祭神を戴き 尾浦の地に祀り奉る。
現代語訳
昔,当地に羽白熊鷲なる土蜘蛛(つちぐも)がいて良民を苦しめていて,神功皇后がこれを征伐するおり,貴船宮で神の御加護を祈ると雲間より光とともに手力雄命が天の射手を率いて加勢し,征伐することができました。
それで、貴船の神々と手力雄命を併せ「射手引大明神」として祀ったとされます。後に里人が香椎宮(福岡市東区)より御祭神をいただき祀ったともいわれます。
ふ~ん。
ここは、神功皇后の伝承地なんだ!
あれ? 神武天皇の伝承は?
神武天皇の伝承
「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」
*帝王山: 摺鉢山 (211.7m)山田小富士
*阿柯小重: 我鹿(赤村)の旧名
田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。
*小野谷も高木神社も今も存在しています。
摺鉢山(帝王山) YAMAP HPよりお借りしました。
この地は、神武天皇や神功皇后の伝承に満ち溢れた里なんですね。
射手引神社の由来や神武天皇の伝承ついてご紹介してきましたが、神社の参道や建物のご紹介はまだでしたね。
でも、長くなってしまいますので、今回はここまで!
続きは、次回のブログでご紹介しますね。
それじゃあ、またね。