はい! 奈央です。
昨年の忘れ物です。
弥生時代の遺跡を辿るうちに、分からないことが次々と出てきたんです。
何故? あれほど栄えた九州北部の多くの遺跡
須玖岡本遺跡、吉野ケ里遺跡、平塚川添遺跡
が、弥生時代の終焉とともに消滅したのか?
その答えは、後の古墳時代にあるはずなんです。
この古墳時代、九州北部に君臨した豪族は 筑紫の君 です。
筑紫の君を調べるために、北部九州最大の古墳 岩戸山(いわとやま)古墳 に向かいました。
八女市岩戸山歴史文化交流館いわいの郷
八女観光HPよりお借りしました。
岩戸山古墳 八女市の文化財HPよりお借りしました。
形式: 前方後円墳
墳丘長: 135m
場所: 福岡県八女市/八女古墳群
築造の時代: 6世紀前半(古墳時代後期)
史跡指定: 国の史跡(八女古墳群)
/筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓
やってきました!
岩戸山古墳です。
「別区」というところで、石人石馬さんたちがお出迎えです。
私は、ひげダンスでご挨拶でーす。
よろしくね!
大きい古墳のうえ、樹木が密生しているため、古墳がどこにあるのかよくわかりませんね。
(石人: えー! 目の前にあるじゃない。)
目の前? これー?
(石人: そうだよ。 ここは後円部だよ。)
ということは、先の方が前方部ってわけね。
廻ってみましょ。
前方部に廻って林の中を見透かしてみると、
確かに人工的な段丘が見えますね。
下の図が、岩戸山古墳の墳丘測量図です。
前方部(下の方)に明確な段がみえるでしょ。
新・筑紫潟の風HPよりお借りしました。
新・筑紫潟の風のブログより
岩戸山古墳は、福岡県八女市大字吉田に所在する北部九州で最大規模の前方後円墳である。
古墳の規模は、全長175m、全幅160m、墳丘長131~138m。後円部径は60~88m、高さ約13.5m、前方部は、幅92~98m、高さ約12.5mで後円部の方がやや高い。
古墳の本格的な発掘調査はなされていないが、戦後間もない1946年に、周堤部の円筒埴輪列等が調査されたことがある。
1963年には、北部九州を襲った集中豪雨によって前方部封土の一部が流出し、露出した円筒埴輪列や散乱した石製表飾品を確認している。
墳丘形態の特徴は、前方部が大きく開き、後円部が僅かに高いものの、前方部との比高差はほとんどないところにある。
墳丘は二段築成で、地山整形後、ほとんどが盛土で形成されている。中でも後円部の調査では、盛土の上半部と下半部で、明確に積土の状況が異なる点は注目される。
墳丘の周囲は、一重の周溝と周堤が巡る。
周堤の北東隅には、「別区」と呼ばれる一辺43mを測る方形の土壇がある。
主体部については、1994 年に地中レーダーと電気探査が実施され、石室の存在が確認されている。
出土品には、須恵器や埴輪の他に、100 点にも及ぶ石製表飾品、いわゆる「石人石馬」がある。
古墳の築造年代は、出土した須恵器などから6世紀前半と考えられている。
被葬者については、『筑後国風土記』逸文に見える「筑紫君磐井之墳墓」の規模が岩戸山古墳のそれと合致すること、かつ、本墳の規模や年代、郡衙との位置関係、石製表飾品の出土状況やその内容などから、筑紫君磐井の墓 と考える説が一般的である。
ふーん。 そうなんだ。
と思ったわたしなんですが、この後、どんどんと疑問がわいてきたんですよね。
それについては、次のブログでお話ししますね。
それじゃあ、またね。