はい! 奈央です。
高杉晋作の墓所 吉田の清水山にやってきました。
ここも紅葉の盛りでした。
実は、ここに 東行庵(とうぎょうあん)があるのです。
そして、このすぐ近くに奇兵隊の陣屋跡があり、ここに墓所をと希望したのは、高杉晋作自身だったといいます。
東行庵の入口に立つ石碑です。
もう、夕方に近かったのですが、多くの観光客が見えていました。
そのお目当ては、美しい清水山の紅葉のようでした。
ちょっと小さくてわかりにくい案内図ですが、山の中腹に高杉晋作とおうの(後に庵主となって、谷梅処尼)の墓があります。
案内図のすぐ先に石橋があり、そこから清水山に登る道があります。
戦前の清水山は松が立ち並ぶ丘だったそうですが、今は、楓が紅葉となって映える丘になっています。
観光客の皆さんがここで記念撮影されるので、順番待ちになっていました。
私も順番を待って、撮影しました。
無事、証拠写真は撮ったし、それじゃ、晋作のお墓に行きましょう。
すぐそこのはずです。
ありました! なんと、国指定記念物(史蹟)になっていました。
ここに、維新の風雲児 高杉晋作が眠っているんですね。
このお墓の前に灯篭がありました。
なんと、この灯篭を寄進したのは、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨、そして伊藤博文の面々でした。
そして、一段下がったところに、おうのさん(梅処尼)の優雅な墓石がありました。
若かりし頃のおうのさんって、ほんとに美人ですよね。
Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話よりお借りしました。
近くには、顕彰碑がありました。
ここにあの伊藤博文撰文の有名な文章があるのです。
動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し ・・・
清水山の麓に東行庵が佇んでいました。
ここは、幕末の頃、奇兵隊軍監 山縣有朋が建て、無隣庵(むりんあん)と名付けていました。
後に、出家して晋作の菩提を弔うとした谷梅処尼(おうのさん)に贈ったものだそうです。
広い池のある庭に出ると、そこに高杉晋作の銅像がありました。
晋作は背がそんなに高い方ではないのにもかかわらず、2尺7寸という長めの愛刀 安芸国佐伯荘藤原貞安を携えていたそうです。
確かに。
東行庵の隣には、東行記念館がありました。
入館してみると、奇兵隊の遺品などが数多く展示してありました。
二階に向かう階段の壁には大きな作晋の写真が掲げられていました。
右手の写真は、晋作と伊藤俊介(博文)の写真ですね。
いろいろなものが展示してありました。
一番目についたのは、奇兵隊 吉田陣屋のジオラマです。
奇兵隊の確認されている隊員数は622名(一説では2000名とも)ということなので、こんなに大きな陣屋が必要だったんですね。
奇兵隊って少数精鋭みたいなイメージだったのが、この陣屋のジオラマを見て認識が変わりましたね。
後方に見えている木像は、梅処尼(おうの)さんのようです。
今年も、2021年11月13日に、ここ東行庵にて、奇兵隊及び諸隊士の慰霊祭が執り行われました。
東行庵HPよりお借りしました。
記念館を出た私は、池のある庭の方に向かいました。
こちらには紅葉が少ないせいか、観光客も疎らでした。
この付近に、大きな奇兵隊陣屋があったのですね。
幕末時は、この付近には彼らの掛け声、怒号なんかが日々聞こえ、清水山からこだましていたのでしょうね。
ここに眠りたいと希望したという晋作の気持ちが分かるような気がします。
晋作とおうのさんの永眠の場所がこんな素敵な場所だとわかってほっとしました。
奇兵隊の熱量をずっと感じていたかった晋作
それを見守りつづけたおうのさん
今でも多くの観光客が美しく紅葉の映える清水山を訪れ、賑やかな話声を聞きつつ、二人が木陰で休んでいるかのようです。
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次回は、てくてく歩き旅の最後に桜山神社に向かいます。
そこでは、坂本龍馬の奥方のお龍さんに出会うことができました。
それじゃ、またね。