はい! 奈央です。
わずか80数名で決起、長州を変え、遂には日本をも変えた。その発火点 功山寺(こうさんじ) にやってきました。
国宝 功山寺仏殿
ここ、功山寺は、晋作の決意を発した場所なのです。
長州男児の肝っ玉をお目にかけます! と。
元治元年12月15日(1865年1月12日)
「従う者は僅かでも、いや、たとえ自分一人だけでもやる。」
高杉晋作の気迫が、幕末の長州に奇跡を起こします。
これが、高杉晋作の功山寺挙兵なのです。
以下、ここに至る経緯の概略です。
元治元年(1864)、禁門の変、四カ国連合艦隊の襲撃と、敗北続きの長州藩では、それまで藩をリードしてきた急進派が力を失い、藩の要職に旧来の派閥 俗論党が返り咲きます。
幕府に対する恭順しか、長州藩が生き残るすべはないと考える俗論党は、幕府による長州征伐の軍勢が迫る中、政敵の周布政之助を失脚させ、さらに、禁門の変で指揮を執った三家老を切腹させ、幕府に謝罪の意を示すとともに、急進派の面々を捕えて野山獄に入れ、後に粛清します。
さらに、奇兵隊などの正規軍ではない諸部隊には解散命令を下し、幕府に対し、恭順の姿勢を示すのです。
萩の自宅に閉居中であった高杉晋作は身の危険を感じ、密かに藩を脱出、福岡に亡命します。
晋作は、「谷梅之助」の変名で、女流勤王歌人として知られた野村望東尼(ぼうとうに)の平尾山荘に潜伏します。
しかし、急進派の人物が片っ端から捕えられ、さらに奇兵隊をはじめとする諸隊が解散を迫られていることを知ると、藩政府を倒す以外に長州を救う道はないと考え、命がけの挙兵を決意して、11月15日、晋作は下関に戻るのです。
晋作は、当時長府に集結していた奇兵隊をはじめとする諸隊に、決起を説いて回りました。しかし奇兵隊総管 赤禰武人や軍監・山県狂介をはじめ、諸隊の幹部で積極的に同調する者はいません。
彼らの意見は、諸隊すべて合わせても兵力は800人程度にすぎず、藩政府を相手に勝算無く、挙兵は時期尚早というものでした。
確かに、この時点で晋作の前に立ちふさがる相手の兵力は比較にならないほど巨大でした。
1.長州藩政府 兵力 約 4,000人
2.長州征討軍(幕府軍、他藩の軍) 兵力 約15万人
3.列強(アメリカ、イギリス、フランス、・・・) 戦艦多数
それでも晋作は諦めず、沈黙を守る隊の面々に対し、次のように言います。
「わかった。もはや諸君には頼まない。」
「ただ、馬を一頭貸してくれ。」
「僕は萩へ行く。」
「そして大殿様と殿様をお諫め申し上げて腹を切ろう。」
「萩に向かって一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。」
「今はその時ぞ。」
結局、晋作に同調したのは伊藤博文率いる力士隊30人と、石川小五郎率いる遊撃隊50人弱に、佐世八十郎(前原一誠)を加えた、およそ80人に過ぎなかったのです。
元治元年12月15日、雪の降る深夜。
晋作は率いる部隊とともに、長府の功山寺の山門をくぐります。
客殿に三条実美ら五卿が潜居していました。
晋作は、五卿を前に決起の趣旨を語り、祝い酒を振る舞われたといいます。
この時、晋作は26歳。
紺糸縅(こんいとおどし)の具足に、桃形兜(ももなりかぶと)を首から背にかけ、玄関外まで見送りに出た五卿らの前で乗馬すると、振り向きざま叫びました。
これより、長州男児の肝っ玉をお目にかける! と。
晋作が号令をかけ、80人は一路、雪の中を下関に向かったのです。
そして、未明に藩の新地会所を襲って占拠し、軍資金や武器弾薬を奪って、萩(本城)の俗論党政府に宣戦布告をするのです。
さらに晋作は、海路、三田尻(防府市)に赴き、藩の軍艦3隻を奪って下関に戻りました。
この晋作の鮮やかに手並みに、奇兵隊をはじめ諸隊が続々と晋作のもとに駆けつけて、軍勢が急激に膨らみます。
一方、萩政府はこの事態に、野山獄にあった急進派11人を粛清するのです。
てつログ 会計士がつづる日々の考察HPよりお借りしました。
大田・絵堂の戦い
12月26日、藩の正規軍である鎮静軍 3,800人 が萩を出立し、三方向から進軍を開始します。
鎮静軍の先鋒隊1200人は、萩から下関に通じる赤間関街道を南へ5里の絵堂宿に宿営しました。
晋作ら諸隊もこれに応じて、南方より北上を開始します。
1月7日未明、諸隊は野戦砲を合図に絵堂の鎮静軍を奇襲します。
鎮静軍は不意をつかれて慌てふためき、諸隊の小銃の一斉射撃の前に、なすすべもなく別働隊の駐留する一ツ橋まで後退しました。
諸隊は一ツ橋方面まで進出し、別働隊の指揮官は戦死し、鎮静軍はさらに後退し、敗退します。
8日、諸隊は大田に移動し、奇兵隊は大田の光明寺に本陣を置きます。
ここで重要な事態が起きます。
諸隊の勝利が、近隣の村民の支持を得たことでした。
諸隊は庄屋から軍資金と食糧の提供を受け、千人以上の農兵も諸隊に協力することになったのです。
1月16日、諸隊は、晋作らの遊撃隊を中心に夕刻、大田本陣を出立し、18時頃、絵堂から赤村の出口に当たる3方向から、鎮静軍が本陣としていた正岸寺を夜襲しました。
松明をかざして正面から遊撃隊・奇兵隊、搦手から八幡隊ら諸隊が攻撃し、戦いは午前2時頃まで続き、鎮静軍は夜のうちに退却したのです。
晋作は、三田尻で奪った軍艦を萩沖に回し、空砲を撃たせます。殷々たる砲声は、萩城下の人々を驚かせるとともに、諸隊の勝利と俗論党の敗北を印象づけたのです。
これが、高杉晋作が起こした第一の奇跡です。
このようにして、高杉晋作は、俗論党を失脚させ、長州を尊王攘夷論の牙城としてまとめあげていったのです。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐(四境戦争)が起きます。
幕府は、尾張藩・越前藩および西国諸藩から征長軍を編成しました。動員された藩の数は最終的に35藩、総勢15万人とされています。
高杉晋作(26歳)は、海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功します。 さらに、小倉口の戦いでは諸隊を率いて、幕府軍を撃退するのです。
こうして、総勢15万の幕府方を退けるという第二の奇跡を起こします。
そして、薩摩と同盟を結んだ長州は、明治維新という、
第三の奇跡へと突き進むことになるのです。
しかし、この第三の奇跡の道筋に高杉晋作の足跡はありませんでした。
晋作は、第二次長州征伐の戦いに勝利したのち、結核に倒れ、病床に臥すこととなったからです。
維新の巨大な原動力の一つとなった高杉晋作は、やがて歴史の表舞台から消えていくのです。
次は高杉晋作の療養の場所に行く予定だったのですが、ここ功山寺の紅葉があまりにもきれいで、多くの観光客がやってきて紅葉狩りを楽しんでおられましたので・・・
私も、ついでにここで紅葉狩りをしちゃいました。
その時のことを次回、お話ししますね。
それじゃあ、またね。