はい! 奈央です。
今、私は 細石(さざれいし)神社というところにいます。
古くは、 佐々禮石神社 と称していたそうです。
主祭神は、磐長姫(いわながひめ)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の二柱です。
かつては広い神田を有する大社だったそうですが、たびたび兵乱に見舞われ社殿を焼失し、さらに、豊臣秀吉の太閤検地により神田が没収されて、衰退したとされています。
福岡県神社誌にも、創建等の情報は全く見当たりませんでした。
この細石神社の場所は、下の地図に示したように、三雲・井原遺跡群の中心地、三雲南小路王墓のすぐ隣にあります。
古代伊都国を巡るコース概要
いこいこ糸島HPよりお借りしました。
これが鳥居です。
飛び出した形は、おそらく過去にもっと広い神域だったことを想像させてくれます。
新しめの標柱です。
神社の由緒書きも簡単そのもので、過去に何らかの大きな圧力が働き、その伝統と権威が消されてしまったように思いました。
さてさて、今回のテーマは、 君が代のふるさと です。
今年開催された東京オリンピックで、何度も何度も 「君が代」 を聞くことができましたね。
第90回選抜高校野球大会
とても美しい独唱 野々村綾乃さん(当時高校生) 1分19秒
国歌となったいきさつ
「君が代」の歌詞は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に、紀貫之によって選ばれ、読人知らずとして掲載された短歌を初出としています。
(ただ、文徳天皇(御在位850~858)の皇子惟喬親王に仕えていた藤原朝臣石位左衛門作という説もあります。)
題しらず
「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで 」
詠み人しらず
1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしています。
1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用されたのです。
宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲しました。
これが、1893年(明治26年)の文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用されたのです。
国歌として制定されたのは比較的新しく、1930年(昭和5年)に国歌とされて定着し、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化されたのです。
明治維新の後、外国人からの申し出が引き金になったのですね。
歌詞はどこでだれが??
以下、古田武彦氏の著書 『「君が代」は九州王朝の賛歌』 を参考にさせていただきました。
山田孝雄氏による「君が代」の分類
我か君はちよにましませ
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
古今集古写本、和歌体十種、古今和歌六帖、朗詠集古写本等
わかきみはちよにましませ
さゝれ石のいはほとなりてこけむすまでに
古今集今城切、関戸氏行成筆朗詠集、教長古今集注
我か君はちよにやちよに
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
古今集流布本、同古写本、新撰和歌朗詠集古写本、
深窓秘抄等
君か代はちよにやちよに
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
朗詠集流布本、拾玉集朗詠九十首抄、
天文本梁塵秘抄等又謡曲隆達小歌、筝曲等
君か代はちよにやちよを
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
曽我物語、結城戦場物語、謡曲(春栄呉服)、
浄瑠璃(頼光跡目論、妹脊山婦女庭訓等)
わか君はちよにやちよを
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
載恩記
君か代はちよにやちよを
かさねつゝいはほとなりて苔のむすまで
うらみの介
歴史的に言えば、「君」は、広く用いる言葉であって天皇を指すとは限らなかったようです。
「我が君」とは、祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味だったのです。
さざれ石って何??
さざれ石は、もともと小さな石の意味です。
でも、日本全国に さざれ石 があるのです。
教育課程審の「審議」まとめ
”長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化した「石灰質角礫岩」を、日本の国歌である「君が代」の歌詞にある巌(いわお)であるとして、この岩を指してさざれ石と呼ぶことも少なくない。”
滋賀県・岐阜県境の伊吹山東麓が主要産地である。
伊吹山東麓さざれ石公園のさざれ石と中曽根康弘氏の石碑
素晴らしき日本の景色たちHPよりお借りしました。
えーっ! 何か思惑がありそう?
2003年(平成15年)9月、宮崎県日向市の大御神社で、境内の拡張工事中に日本最大級のさざれ石群が発見されたそうです。
Tea time diary HPよりお借りしました。
ただし、これは礫岩であり、石灰質角礫岩ではないので狭義のさざれ石ではないが、広い意味でさざれ石とされるそうです。
古代に、さざれ石の定義なんてあったのかしら?
さざれ石神社ってほかにあるの?
いろいろと探しましたが、どうやら、ここ1か所だけのようですね。
そう! ここが、ただ一つの 細石神社!
でも、どうして?
確かに、近くの平原遺跡がある地域を曽根(そね)というように、小石だらけの土地だったのかも。
あるいは、磐長姫のことに関係するのかな?
どうして、「君が代」のふるさとなの?
それは、これから少しづつお話ししたいと思いますが、弥生から古墳時代にかけて、博多湾沿岸の奴国-伊都国には、数々の「君が代」にまつわる遥か古代からの伝承、地名があるのです。
弥生時代9mほど海面が上がっていた頃の福岡(博多)の海岸線
Spice4Life(アーキテクトの都市生活日記)HPよりお借りしました。
千代 ・・・ 博多湾沿いの地名(福岡県庁所在地)
さざれ石 ・・・ 伊都国 細石神社 主祭神:磐長姫
いわお ・・・ 伊都国王墓地 井原(いわら、岩羅)
伊都国後背最高地 井原(いわら)山
背振山地第2の高峰
苔牟須売(こけむすめ)神 ・・・ 伊都国桜谷神社の主祭神
磐長姫の説あり
志賀海神社の山褒め祭 ・・・ 君が代 の祝詞
創建: 不明 ただし、天平3年(731年)以前
ということで、
このテーマ、スピンオフしてもう一回続けたいと思います。
それじゃあ、またね。