はい! 奈央です。
前回、夜臼遺跡の跡には行ってみたけど、信号機だけを見てきただけの私です。
それで今回は、新宮町の歴史資料館へとやってきました。
歴史資料館は、シーオーレ新宮というコミュニティーセンターの中にあります。
行ってみましょう。
はい! 歴史資料館にやってきました。
周りは、土器だらけです。
私の他には、もう一人30~40代の男性が一人おられました。
その方も早々に出られたので、私一人で貸し切り状態です。
ありました!
夜臼式土器のコーナーです。
下の3点が、左から、突帯文付浅鉢、壺、甕のようです。
残念ながら、展示されていた甕には突帯文はありませんでした。
この夜臼地区とここに接した三代地区には多くの遺跡があり、旧石器時代から、縄文時代、弥生時代、古墳時代を通じて、人々が生活の場としたところのようです。
とても多くの壺や高坏が出土したそうです。
説明書きには、朝鮮半島系の土器が多く、半島との交流が盛んであったことが書かれてありました。
もう一度、歴史を振り返ってみると・・・
1950、1951年(昭和25、26年)、福岡県糟屋郡新宮町大字上府字高松にある弥生時代初めの居住址を森貞次郎、杉原荘介らが発掘調査し、袋状竪穴(貯蔵穴)二基を発見しました。
そこでは、甕形、壺形の土器のほかに、石鏃、土製紡錘車、土錘、鯨骨製土掘り具などが出土しました。
ここで発見された条痕文と刻目突帯(きざみめとつたい)を特徴とする土器は、縄文時代晩期の系統のものと考えられ、「夜臼式土器」の名が与えられたのです。
これが、突帯文付浅鉢です。
しかし、・・・
1950年(昭和25年)1月、竹下駅前で仕立て屋を営んでいた在野の考古学研究者である中原志外顕氏が、ゴボウ畑を調査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式土器(刻目突帯文土器)と、弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡(板付遺跡)である可能性が浮上したのです。
板付遺跡の復元水田
その後の調査で、ここ板付遺跡が日本最古の環濠集落であることが確実となったのです。
さらに、炭化米や籾圧痕の付いた土器 などが出土したことで稲作農耕の存在が確認されたのです。
縄文土器とされていた夜臼式土器ばかりが出土する水稲農耕遺跡が見つかったため、専門家の間で議論が沸騰したのです。
ここで、「水稲農耕の始まりを以て弥生時代の始まり」とする「弥生早期」という概念が生み出されたのです。
弥生早期とは、水稲農耕とともに夜臼式土器(突帯文土器様式)のみが使用されていた時期とされます。
夜臼式土器の次に現れるのが遠賀川系土器と言われる弥生前期の土器です。 そのもっとも古い初期の土器が板付 I 式甕(土器)なのです。
板付 I 式甕の祖型とされる「突帯がめぐらず、無文で、口が少し外向きに開く特徴を持つ甕」、すなわち、北部九州において弥生早期とされる突帯文土器様式(夜臼式土器)に含まれる新しい形の甕こそがここに展示してある甕だと思うのです。
前にも書いたように、この新宮町には旧石器から縄文や弥生、古墳時代の遺跡が沢山あったそうです。
海のすぐ近くなので砂鉄を採って鉄器を生産し、土器や石製品も製造していました。
弥生時代にはダムを作って、灌漑をしていました。
シーオーレ新宮の隣には葦原が広がっていました。
この葦原を見ていると、弥生時代当時の面影を見ているように思えました。
古墳時代になると武人たちを埋葬する時には、鏡や勾玉、金の耳環などとともに、馬具や実用的な鉄の刀や剣を持たせました。
とても長い刀です。
この場所は、半島との活発な交易拠点であるだけでなく、軍事的な要衝でもあったのでしょう。
ここに展示された多くの鉄製の刀や剣を見ていると、そんなことを想像しました。
さて次は、上で紹介した板付遺跡 です。
それじゃあ、またね。
やっぱりマスクしていると、息がしにくいですよね。