はい! 奈央です。

 

今回のサイクリングの旅もほぼ終わりに近づいてきました。

今日のコースでは、自撮りをしていないので、祓川での写真の使いまわしでごめんなさい。

 

 さてさて、最後のコースは、⑬高須ポンプ場を出発して、浅川を過ぎて、⑭⑮三ツ頭を通り、⑯で曲川(旧遠賀川)に至るコースです。

 そして、最後に、曲川大君という場所で遠賀川に合流するのです。

 さあ、高須のポンプ場を出発です。

 前を行くお兄さん(おじさん?)の後ろを忍者のようについていきます。

 だって、ミニスカでバンバン漕いで追い抜いていったら、はしたないでしょ!てへぺろ

 対岸の地域は、浅川といいます。

 江戸期の古書に、

 「浅川村は小敷の西、洞の海の南、谷の中に在り。小敷浅川両村洞の海の南に在り、海に近し。このあたり、いにしへ、洞の海へ大船も通ひ所なるべし」

 「年を経て用地を墾開し、村落をなし、今はわずかに潮水の通ふばかりの川と成りて、幅4、5間ばかりなる所も有。.されば村名を浅川と呼なるべし」

 「村辺の土中からは貝殻も多く出る」

とあります。

遠賀堀川の歴史 2008 遠賀川下流域河川環境教育研究会よりお借りしました。

 

 川幅4、5間というと、7~9mなので、江戸期の江川の川幅も現代と同じくらいだったのですね。

下の写真、まっすく伸びてきている川は、支流の宿の内川です。

江川本流は、右手の橋の下を通っています。

 さあ、遠賀川、そしてその前に曲川に近づいてきました。

 正面の丘陵地は、浅川城という麻生氏(現在の副総理のご先祖様?)の居城があったそうです。

 中世の山城の形をよく残しているそうで、城跡からは、遠賀川一帯を見通せるそうです。

 そして、三ツ頭という場所にやってきました。

 ここは、遠賀川、曲川、江川三つの川が大合流する大切な場所である事を物語っていますね。

川を行き交う船を監視する城塞のように、急斜面が河岸に迫っています。

どう見ても、交通の要衝を見張る山城もしくはですよね。

上から狙われたら、航行する船舶はひとたまりもありませんね。

 源平合戦で、本城城に陣を敷く源範頼山鹿城の平家方山鹿秀遠と戦うとき、芦屋沖の外海で海戦(蘆屋浦の戦いを行いましたが、江川を選ばす、わざわざ波の荒い響灘の方を遠回りしていった理由もうなづけますね。

蘆屋浦の戦い 温故知新HPよりお借りしました。

縄文時代の古洞海湾と古遠賀湾の姿 KODAiZiNE HPよりお借りしました。

 遂にやってきました。笑い泣き

 曲川(かつての遠賀川本流)です。

手前の流れが江川で、合流している先の流れが曲川です。

振り返ると、江川とその先に浅川城の丘陵が見えます。

曲川に沿って、さらに進んでいくと、やがて巨大な川との合流点に近づきます。 

そう、遠賀川です。

奥に見える河口堰の長さから、その大きさがわかりますよね。

そして、ここが曲川・江川遠賀川との合流点です。

右手に見える丘陵が山鹿城址です。

昨年の年末、ここを訪れました。

その時撮影したものを再掲させていただきます。

そして、この合流点で忘れてならないのは、ここの地名です。 

大君(おおきみ) というのです。

そうです。 安徳天皇 が壇ノ浦に参られる前に居られた行在所なのです。

はい! やっと、ゴールまでたどり着きました。

これから、スタート地点まで帰らなくっちゃいけません。

帰りは、もっと軽快に愛車を飛ばしていける道筋を選びます。

 

それじゃ、次がエピローグです。

またねー。