はい! 奈央です。

安徳天皇の遺蹟を追うプチ旅を続けています。

先に、芦屋の山鹿城大君神社の行在所のこと、

そして、葦屋浦の合戦で平家方の原田種直が源氏方の源範頼に敗北したことをお話ししました。

その後、幼い安徳天皇は、平家一行に奉じられて、芦屋の地を離れ、 門司の柳が浦に造営された仮御所 いわゆる 柳の御所 に移られるのです。

 

この絵の安徳天皇 とてもかわいらしく、いじらしいですよね。

安徳天皇 Japaaan Magazine HPよりお借りしました。

 

下の図に安徳天皇行幸経路を示します。

門司駅のすぐ近くに、大里(だいり)という地名の場所があります。

ここは、かつて 内裏 と書いていたそうです。

そして、そこにあったのが 柳の御所 そして、今は 御所神社 があるのです。

神社の鳥居の脇には、まだ若い柳の木が2本植えられていました。

柳の御所なので、柳は必要ですよね。

鳥居を過ぎたら、すぐ右わきに石碑がありました。

安徳天皇 と明記されていますよね。

歌は、平忠度という人が歌ったものだそうです。

都なる九重の内恋しくて柳の御所を立ち寄りて見よ 平忠度

 

二の鳥居を通った左手には、キリメンの石室とというのがありました。

かつて、安徳天皇平宗盛の木像が納められていたそうです。

今は、近くの戸上神社にあるということです。

これが御所神社の本殿です。

神文はやはり 天皇家の十六菊花紋 でした。

この社殿は、明治35年明治天皇陛下が熊本の大演習に来られた時に宿泊所として新築された建物を戸上神社が買い受け、御所神社社殿としたのだそうです。

この歴史を読んで、安徳天皇 が可哀そうで切なくなりました。

でも、900年後の人たちが安徳天皇のことをちゃんと忘れずに、社殿としたのですから、喜ぶべきことなのでしょうね。ニコニコ


 

私もしっかりお参りしましたよ。

こんなきれいなオレンジの屋根で、ちょっとイメージと合わないんだけど、でもいいわ。

幼い安徳天皇にはいいのかもね。

この仮御所 柳の御所 に居られたのもほんの束の間で、3月には 壇ノ浦の合戦 が起こるのです。

そのため、 安徳天皇 は対岸の彦島に移られます。

そこで、最後の合戦に臨まれるのです。

このような幼いにもかかわらず激動の一生をどのようにお感じになっておられたのでしょうか。

いま、この地からは一面に立ち並ぶ商業ビルや住宅が見えるだけで、海も対岸の彦島も見えません。

当時は、目の前に海が広がり、軍船が海峡を埋めていたのかもしれませんね。

 

はい、次は彦島、そして壇之浦なんですけど、

県外になるので、このプチ旅は、ちょっとここでお休みさせてくださいね。

じゃあ、またね。