はい! 奈央です。

大蔵幕府旧蹟の前の通りを東に向かって歩いてきました。

そしてたどり着いたところが 鎌倉宮 です。

日本でたった一社だけ、天皇が自ら創建した神社が、ここ 鎌倉宮 です。

鎌倉宮という名前も明治天皇によって名づけられたそうです。

 

 

鎌倉宮のご祭神は、後醍醐天皇の第三皇子 大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう) です。

 

護良親王 まなれきドットコムHPよりお借りしました。

 

明治天皇が、護良親王の平和国家の実現に努力した遺志を伝えていくことを望まれ、明治2年に鎌倉宮の設立の勅命を発され、親王が身罷れた地に建立されたのです。
護良親王は、1335年に薨御されました。しかし鎌倉宮が創建されたのは、それから約500年も後の1869年(明治2年)なんです!

 

鎌倉時代、この時の天皇 後醍醐天皇 は、武士が政権を担う社会ではなく、天皇自らが政治を行うべきだ!と考えていました。

護良親王は後醍醐天皇の命を受け鎌倉幕府と戦い、これを倒したのです。

この後、後醍醐天皇は自ら政権運営を行いました。世にいう建武の新政(親政)です。

 

明治天皇は、江戸幕府からの大政奉還をご経験されています。

明治天皇にとって、武士から天皇へ政治が移譲する世をご経験された護良親王には親近感をお持ちだったのではないのでしょうか。

 

鎌倉幕府を倒したあと、護良親王は捕縛され、鎌倉に流刑に処されるのです。

そこで仇敵である足利直義の手に渡され、ここ鎌倉宮の地で土牢の中に9か月間幽閉されるのです。

そこで、直義の腹心の配下である淵辺高博の手によって悲劇の死を遂げられるのです。

 

護良親王幽閉土牢 黙翁日録Hpよりお借りしました。

護良親王幽閉土牢 説明文 黙翁日録Hpよりお借りしました。

 

明治天皇はこの死を悼まれ、鎌倉宮を創建されるに至ったのです。

 

鎌倉宮大鳥居です。

赤い笠木、白の島木、白の貫、神額の無いシンプルな形

赤と白のコントラスト 

とても特徴的な鳥居ですね。

 

鎌倉宮拝殿です。

しっかりとお参りしましょう。

鎌倉時代から南北朝時代、そして室町時代へと変遷する時代のうねりの中で、波乱万丈の一生を送り、28歳という若さで身罷れた護良親王のことを思うと、明治維新の混乱の中で、日本の将来を憂いて力の限り活動した多数の志士たちとオーバーラップしてしまいます。

前回来たときは土牢の前に立ちました。

その時、あまりに耐えられない気を感じてしまい長居できませんでした。

でも今、吉田松陰や高杉晋作らの遺蹟を追ううちに、彼らの前向きの思いが心に伝わるようになってきました。

今回も、護良親王の思いを感じたかったのです。

でも、今回はそこには近づくことができませんでした。

私にも少し霊的な感覚があるのかしら。

ここ鎌倉には、いろんな歴史的な思いが複雑に入り混じっているみたいです。

 

ということで、この鎌倉宮を離れ、再び喧騒の鎌倉大仏を見に行くことにしました。

それじゃあ、またね。