はい! 奈央です。
いよいよ、平原遺跡にやってきましたよ。
伊都国歴史博物館からは車で10分ほど、2~3kmの距離でした。
周囲は住宅地でその一角に広場のような場所が開けていました。
そこには今や盛りと咲き競うコスモスの畑が広がっていました。
そして、広い芝生公園では小さい子供たちを連れた家族が休日を楽しんでしました。
そして、その奥に小さな土盛が見えます。
あれ? 小さい!
でも、ちゃんと「平原弥生古墳」という看板があったので、やはりここが伊都国の大王の眠る場所なんです。
近づいていくと、その土盛は長方形の形をしていました。
ここが平原遺跡1号墳!
あの超大型銅鏡 内行花文鏡 が発掘された古墳なんです。
昭和40(1965)年、曽根丘陵北側で地主がミカンの植樹の際に、偶然、おびただしい数の銅鏡の破片を掘り当てた銅鏡のそうです。
原田大六氏(故人)を中心に本格的な発掘調査をした結果、国内最大級の「内行花文鏡」が5面、青銅鏡35面の総数40面もの銅鏡など、質・量ともに前例のない豪華な副葬品の全貌が明らかになったのです。
平原曽根遺跡群 邪馬台国の阿保HPよりお借りしました。
平原遺跡というのは、弥生時代後期から終末期に築かれた墳墓群です。
糸島における古代年表 猫間障子HPよりお借りしました。
下の写真が発掘されたときの玄室の状態の再現です。棺は石製ではなく、木製だったそうです。
副葬品は装身具が中心で、武器類がほとんど含まれていないことから、被葬者は「女王」である可能性が高いとされています。
こんな小さなお墓に豪華な装身具とともに埋葬された女王って誰だったのでしょうね。
国内最大級の鏡は凸面鏡であり、それは姿形を写すものではなく、数多の人々に太陽の光を反射させて送り届けるために作られた祭事用の鏡でした。
それを扱う女王とはきっと 日の巫女(ひのみこ) だったのでしょう。
ここに生きていた女王の息遣いが聞こえてきそうです。
これで、二つの宝物 金銅装頭椎大刀 と 内行花文鏡 を訪ねた旅は一応終わりです。
けれど、この時代の筑紫の宝物として避けては通れないものがあります。
そうです! 金印 漢委奴国王印 です。
旅の最後に、この金印の出土地を訪れました。。
それじゃあ、またね。