はい。今日もmarineが担当します。
実は、このシリーズを早く完結させてと奈央が煩いので、連日のアップとなりました。
奈央: なによ! 煩いって!
どうして宮本武蔵に繋がるのかを早く知りたかったからよ。
はいはい。 ということで、今日は宮本武蔵です。
宮本武蔵が美作の国、宮本村で生まれたことは良く知られていますよね。
そして、彼の生誕地のすぐ脇を、吉野川が流れ、その川を日本刀の原料となる玉鋼やクヌギの木を運ぶ船が行き交い、国内随一の刀剣製作拠点である”備前長船”へと繋がっていくのです。
武蔵の父である新免無二が、既に二刀流を使っていたということも伝えられています。
すぐ近くに、大量の刀を生産する拠点があり、父が二刀流をはじめていたということは、武蔵に二刀流(二天一流)を開眼させる素地は十分にあったわけです。
では、何故、武蔵は小次郎との決戦に、刀ではなく、櫂で作った木刀を持って対峙したのでしょうか?
Trip Note みんなでつくる旅行ガイドブックHPよりお借りしました。
九州、小倉の小倉城に展示してある小次郎の物干し竿と武蔵が用いた木刀です。
小次郎の長い刀に対抗するために、それより長い木刀を使ったというのが一般的な見方です。
一番上が武蔵が用いた櫂から作った木刀、中が小次郎の物干し竿、手前が通常の刀 (木野雄大さんのtwitterよりお借りしました。)
でも、私は、単純にそうだとは思えませんでした。
ここで、キミネコ先生から示唆をいただきましたことに、私は目から鱗でした。
宮本武蔵はその一生において、60回の決闘を行い、一度も負けたことがないと養子の伊織によって記されています。
しかし、キミネコ先生によると、一度だけ、負けたことがあるという説もあるそうです。
これを調べてみると、夢想権之助という”杖術(じょうじゅつ)”の達人でした。
彼は、一度、武蔵に剣で挑むも敗北し、その後、山篭りして”神道夢想流杖術”を開祖するに至ったのです。
この杖術は、刀よりはるかに長い棒で、剣術、槍術、薙刀術を駆使した千変万化の技法群を繰り出します。
この一度だけ、負けた(かもしれない)という経験が、武蔵に小次郎の物干し竿に対峙する方策を授けたのだと思います。
確かに、いかに剣先が鋭いといえど、櫂の木刀を一撃で真っ二つにすることは、いかな小次郎といえど無理だったでしょう。
それどころか、木刀に刃先が食い込み、抜けなくなる可能性すらあります。
そうなると、武蔵の木刀も小次郎の物干し竿も使い物にならなくなります。
その時点で、武蔵は櫂の木刀を捨て、二天一流の剣で、小次郎に止めを刺すチャンスが訪れるのです。
このように考えると、武蔵という人は、武芸者というよりも、武蔵本人が言うように、兵法者だったのだと思います。
宮本武蔵は、晩年に近づくと、熊本の金望山の中腹の霊巌洞に篭り、兵法書”五輪の書”を著しています。
さらに、宮本武蔵は優れたアーチストでもあり、彼が描いた水墨画 枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)は、国の重要文化財に指定されているほどなのです。
古代より、戦いの武器は、木や石から、青銅の武器へと代り、やがて、より強力な鉄製の武器が世の中を席巻していきました。
しかし、この時代に、あえて木の武器の強さを再認識した武蔵は、もっとも強敵の小次郎に対し、木刀を選んで対峙したのでした。
しかし、既に世の中は鉄砲の時代へと移ろい、剣はその役目を負え、新たな鉄製の武器:飛び道具へと進化していくのです。
以上で、”刀”に関するお話は終わりにします。
あ、でも”鉄にまつわるエトセトラ”シリーズは、もう少しだけ続きますよ。
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奈央: やっと終わったわ。
でも、武蔵という人は、武芸者の頂点を極め、そして刀の時代の幕引きに立ち会った人なのね。
marine; はい。そうだと思いますね。
奈央: ところでこのシリーズまだ続くって本当なの? もう!
じゃあ、又ね。
次は私のお出かけ日記に戻ります!!