八重山キリシタン事件につい1~2。ノート4

八重山キリシタン事件(1624年~1642年)について


「八重山キリシタン」の法難事件は、1624年の南蛮船の漂着、フアン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父の来島から1642年の大城与人(毛裔氏二世大浜親雲上安師=童名:真蒲戸、1602~1674年卒)の御赦免で終了する。これは薩摩侵略後(1609年)の琉球唯一のキリシタン禁教による弾圧事件である。先島文化研究所から1988年10月1日、『嘉善姓一門と八重山の歴史』を自費出版した。

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そのなかの「二、本宮良永將とキリシタン事件 1、八重山キリシタン事件の概要」の項に「(略)八重山のキリシタン事件史料には、『嘉善姓大宗永展』家譜、『八重山島年来記』、『栢姓家譜正統』家譜、『薩摩旧雑記録』『ドミニコ会の殉教録』等があるが、」と述べた。現存する八重山の家譜を精査して「八重山キリシタン事件」(1624~1642年)との関わりを照合し再検討した。

4-1  『十七世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師 フアン・デ・ロス・アンへレス・ルエダ神父 伝記、書簡、調査書、報告書』(ドミニコ会員 編注者:ホセ・デルガード・がルシーア ドミニコ会員 岡本哲男・訳 発行者:聖ドミニコ修道会/発行:1994年)より。

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1624年宣教師ファン・デ・ロス・アンへレス・ルエダ神父の漂着、2代目の本宮良頭永將によるもてなし、永將の入信、密告により同年に宮良頭職を解職され、字新川の慶田盛村のオンナー(小さな御嶽)で焚刑に処せられている。後任の3代目の宮良頭を1624年弟・三男永弘が就いている。ちなみに、初代の宮良頭は毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1617年卒)が就いている。2代宮良頭は初代宮良頭安英の1617年告老致死後に本宮良頭の嘉善氏五世永將が就いたと推察した。

1624年来島の宣教師フアン・デ・アンへレス・ルエダ神父については『十七世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師 フアン・デ・ロス・アンへレス・ルエダ神父 伝記、書簡、調査書、報告書』(ドミニコ会員 編注者:ホセ・デルガード・がルシーア ドミニコ会員 岡本哲男・訳 発行者:聖ドミニコ修道会/発行:1994年)の「13―ルエダ神父の悲しい最後」の項に下記の通りに記載されている。
「台湾から母国に帰る途中の日本人ドミニコ会員フライ・トマス西神父は後の日付になっている管区長宛の書簡の中で、1624年以後のルエダ神父に関する最後の情報を送っております。この書簡は1630年1月3日付になっており、西神父は次のように書いております。

「私はフアン・デ・ロス・アンへレス神父(スペイン、ブルゴス県・ブルゴス司教区、ヴィリャサンディノ村に1578年頃に生れ~1624年卒)の死に関して知らされました。彼の友人であった一人の地頭(嘉善氏五世宮良親雲上永弘〈童名:真勢、生不詳~1635年卒〉)が私に次のように話しました。:20日間以上も自分の家に彼を留め、歓待しました。ある日神父は一人の僧呂の寺に行き、その戒律の偽善さについて彼と議論を始め、その僧呂をほぼ完全に言い負かしました。それで激怒した彼は自分の部屋に入り、下男たちに神父を家から追い出すように命じました。彼らは主人が命じたことをいたしました。
後に、僧呂は琉球王のところに行き、神父を訴えました。王は彼を粟国と呼ばれる島へ追放するように命じたので、そこで彼は多くの月日を過ごしました。神父は、時折、土地の者たちが入ろうとしない偶像の捧げられた森に入っていたという噂です。そのために人々は彼を罪人として王に訴えたので、死刑の宣告が下されました。
そして、人々は船で彼を別の島に連行すると話しておいて、噂によれば、海に投げ込まれたそうです。しかし、ある人々は首を切られたとも話しております。
彼の友人の地頭は、私が彼の友人であることを知って神父の非業の死について真実を語ろうとせず、ただ病気で死んだと話しました。しかし、彼が殺されたのは全く確実なことで、皆がその事を確信しております。
あの地頭が一つの大切なことを話しました。それはその神父が追放されてその島へ向かう時、あの僧呂の訴えにより王が追放するが、僧呂もそのまま済むことはあるまいと話したそうです。それから5日も経たない内に、王はその僧呂を追放しましたが、すんでのところで殺される筈でした。神父の追放令を執行した地頭王の不興を買い、現在もなお元の地位に戻れないでおります。これこそ天罰であると私に話しました。すべては真実です。」
1631年5月14日の日付で署名されているロザリオの聖母管区議事録の中に、ラテン語の原文から翻訳された次の文章によれば、ルエダ神父の殉教を認知している。
「日本の王国、琉球列島においてフアン・デ・ルエダ神父は死んだ。日本人の改宗のために数知れない働きを常に耐え抜いた後に、最後に信仰を守って海に投げ込まれ、永遠のしもべたちの栄光に輝く港に喜んで到達した」。(略)

4-9 1609年薩摩藩が琉球国を侵略後に薩摩藩の進言により1614年創建された字石垣の桃林寺。

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『栢姓家譜正統』家譜より。

1624年来島した宣教師フアン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父は粟国島へ追放され、その島の海上で殺害されている。

『栢姓家譜正統』家譜の「三世良宗 小録親雲上」―栢姓三世小録親雲上良宗(童名:百千代、唐名:栢壽、1582~1656年卒)の天啓四(1624)年甲子の項に下記のように書かれている。
同年八重山島酋長頭石垣親雲上夾于本國訴告為同僚宮良親雲上鬼利死旦宗告由是奉 命令到彼知方擒獲宮良譴責見宗旨之實驗故焼殺之旦査島中諸嶋又至宮古島故之事竣帰帆。

【要約】
同(1624)年、八重山の頭石垣親雲上が来て、同僚の宮良親雲上がキリシタン宗を奉じているとの訴えがあり、王府の命により、現地に赴き調べたところ、訴えられたとおりなので、宮良を火あぶりで処刑し、その後八重山、宮古島の改宗事務を行い帰帆する。

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『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988年10月1日より。

「八重山の頭石垣親雲上」とは親族の一人(本宮良頭・宮良親雲上永將)である字大川の玻武名村(ハンナムラ)居住の長栄氏五世石垣親雲上信本(童名:保久利、1592~1661年卒)である。また、「宮良親雲上」とは同一世代の玻武名村から東へ約100m離れた字登野城の岸若村居住の嘉善氏五世宮良親雲上永將(童名:ほくりむい・保久利思、生不明~1624年卒)である。
長栄氏五世石垣親雲上信本の姉宇那比戸が宮良親雲上永將の父嘉善氏四世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)に嫁いでいる。二人は石垣親雲上永正よりあやかり名の童名:保久利(ほくりむい)を継承している。また、親族の一人である五世信本は石垣頭職6代目に就いていた叔父石垣親雲上永正より1615年7代目の石垣頭職を引き継ぎ1638年まで勤務している。ちなみに嘉善氏四世石垣親雲上永正は一つ上世代のインヤー(西の家)の慶田盛村居住の憲章姓大宗石垣親雲上英乗(童名:石戸能、生不詳~1601年卒)の告老致死後1601年石垣頭に就き、1615年隠居している。

 

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青山玄氏『石垣永将の殉教 琉球最初のキリシタン』

青山玄氏『石垣永将の殉教 琉球最初のキリシタン』(発行者:水浦征男 発行所:聖母の騎士社/発行:1997年)の「トマス西神父石垣訪問」の項で下記の通りに書かれている。
「(略)1629年の4月か5月頃、ドミニコ会管区区長は日本人の着物で変装した西神父(平戸領の生月島に1590年生れ、1634年卒)を通訳として伴い、5年前にルエダ神父が上陸することに成功した石垣島へ行くことにした。ルエダ神父がどのようにして上陸に成功したかは、その時の船長から聞いていたであろうから、恐らく同じようにして上陸し、西神父を残して管区長は台湾に戻ったが数週間後に、スペイン船が再度石垣島に立ち寄って船長が西神父と接触することができたのであろうか、1629年5月29日付で石垣島からマニラの上長宛てた西神父の手紙があり、そこには次のように書かれている。(チースリク著の前揚書、33~34頁所収)
管区長神父は自らそこへ渡り、私を通訳の資格で連れて来た。そしてここから私を日本へ派遣することにしている。私は日本人として、そこへ渡ることが難しくないからである。私としては、これほど偉大な使命にはふさわしくないと思っているが、従順のことゆえ満足してゆこう。そのあいだ神父様私のために毎日、神に祈ってください。特にただいま神父様のミサや祈りを必要としているから。
私としては、6月の初めに、琉球の王が居住している主要な島である琉球の大きな島に渡って、そこから、できるならば真っ直ぐ日本へ行こうと思っている。しかし、私がスペイン人の船で来たゆえ、何かの支障が起こるならば、私はなお半年もしくは1年そこに留まり、それから幸便があれば更に進んで行こう。確かに長いあいだ異教徒の地に留まり、告解もミサもなく、祈りのできる場所もないので、たいへん心細いことであるが、しかし、すべては神への奉仕のためだと思って、自分を慰めている。とにかく、この世において私たちが再会することはもうないだろう。しかし、神のお恵みのおかげで、天国でまた会えるだろうと希望している。
西神父はこうして日本へ渡航を待っている間に、一緒に行くことになっていた一人のキリシタンが死んでしまった。しかし代わりに、ルカスという洗礼名を持つ新しい同伴者にめぐり合った。彼は、前述したエルキシア神父と共に1623年6月に鹿児島に上陸し長崎地方で布教していたルカス・デル・スピリト・サント神父から日本で受洗、貿易の仕事で琉球に来ていたキリシタンであった。西神父は、このルカスと一緒に同じ1629年11月10日、無事長崎に上陸することができた。(略)

1629年、トマス・デ・サン・ハシント・西六左衛門神父(1590~1634年卒)が来島、3代の前宮良頭の嘉善氏五世宮良親雲上永弘(童名:ませ=真勢、生不明~1635年卒 )と毛裔氏二世大城与人安師 (童名 : 真蒲戸、1602~1674年卒 ) の二人に接触した。
1630年、その件で安師は大城与人を解職され、大城与人の後任に同年1630年岸若村居住の守恒姓大宗石垣親雲上寛長(童名:武勢真、1600~77年卒)が任じられている。二人は王府に連行された。宮良親雲上永弘は宮良頭を1630年に解職され渡名喜島への流刑後に薩摩の命により1635年焚刑に処されている。

4-11-1 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

『薩摩旧記録雑録』(後編巻87)の一六三四年十月十九日付に「一.八重山島のみやらと申者南蛮宗に成候故、当時流罪の由候 早々火あぶりに可被仰付事」と記されている。

1631年字新川の慶田盛村から字石垣の波揚名村に島移りした山陽姓大宗宮良親雲上長光(童名:祖良廣、1584~1661年卒)が4代の宮良頭に任じられている。毛裔氏二世大城与人安師は慶良間島へ流刑され、その後、親族たちの働きかけによりご赦免され1642年に帰島している。

また、琉球王府は「八重山キリシタン事件」(1624~1642年)で関わって流刑された粟国島(1624年ルエダ神父)、渡名喜島(1630年前宮良頭の永弘)、慶良間島(1630年大城与人)等の島々の改宗事務を行っている。

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「四一 麻姓家譜(原)八世儀間筑登之親雲上眞韶 石嶺家」那覇市史編集委員会、那覇市史・資料篇第1巻7 家譜資料(三)首里系』(那覇市企画部市史編集室/1982年)の『麻姓家譜八世眞昭支流』家譜の「麻姓八世儀間筑登之親雲上眞昭(童名:樽金、唐名:麻似徳、1613~70年卒)」の項に下記の通りに記載されている。
崇禎九(1636)年丙子、毛氏読谷山親方盛泰赴、久米・慶良間・粟国・渡名喜島、改鬼利支丹及人数之時筆者相勤。

4-11-2 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

4-11-3 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

『薩摩旧雑記録』(後編巻94)には寛永一五(1638)四月一五日付の金武按司、三司官あての「薩摩の覚」があり、下記の通りに記載されている。

「今度貴理師旦宗御法度ニ付御改之儀被仰下候、琉球国中之儀稠改申付候、貴理師旦宗一人御座候、其外右之宗体之者一人も無御座候事。右八重山島本ミやらの与人きりしたん致落候哉如御法度早々火あふり二可被仰付候。唐人ミたい事南蛮人へ出入仕候。曲事之儀候間可被申上遂事付自今以後きりしたん宗弥稠可被致禁之事」とある。
大意は次のようなことである。
今度貴理師旦(キリシタン)御法度が言い渡され、琉球国中を厳しく調べるように押しつけておいたが、キリシタンはひとりだけだったとのこと。八重山島の本宮良与人、キリシタンと判明したら早々に火あぶりにするように。唐人と同様に南蛮人と接触するとはけしからん事で成敗を加えるべきだ。その処分については後で報告すること。今後、キリシタン宗は厳しく取締るべきこと。

仲良し三人兄弟(次男の永將、三男で永弘、六男の永定)は字新川の出生地の慶田盛村から字登野城の岸若村に島移り(移住)をし、新天地で南蛮(中国)貿易し栄華を築いていたと伝えられている。
1636年宗門改め(踏み絵)実施したら嘉善氏五世宮良与人永定がキリシタンとして発覚し、1638年薩摩藩の命により、字新川の慶田盛村のオンナー (小さな御嶽・本宮良御嶽) で焚刑に処された。焚刑地のオンナーは1624年兄の宮良親雲上永将 ( 童名 : ホクリモイ、生不明~1624年卒 ) がキリシタンとして焚刑に処された場所である。オンナーに姉の長女多比(生寿不詳)、次女真市(生寿不詳)が自宅の前・慶田盛村の浜辺で洗濯をした際に足元に流れ着いたと伝えられている永將、永定の二つの霊石が安置されている。六男の宮良与人永定がキリシタンを信仰していたのかは定かでない。兄たちを思い、強い信念の持ち主だったことが分かる。

4-12 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

嘉善姓一門の本家・石垣家にヤーバン(家判)と言って四つの巴の「心字紋」が残っていた。その四つの巴は「魂」、すなわち「精神」を意味し、「善を嘉す」からきたと言われている。

4-13 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

また、嘉善姓一門やオンナー近辺に住んでいた人々が以前毎年旧九月九日の重陽の節句に本宮良頭の永將、宮良与人永定の徳を慕い、子孫たちが本宮良頭永將、宮良与人永定の保久利思にあやかり健やかに育つように、また偉くなるようにと願いを込めてこの字新川の慶田盛村の焚刑地のオンナー(小さな御嶽・本宮良御嶽)の神前に祭典を行っていた。

4-14 『嘉善姓大宗永展』家譜より。

この「八重山キリシタン事件」( 1624~1642年) については、『嘉善姓一門と八重山歴史』のなかで「二、本宮良永将とキリシタン事件 1、八重山のキリシタン事件の概要」の項で『嘉善姓大宗永展』家譜の「四世永正」の項に下記の通りに記載した。新史料や現存する家譜を照合し、さらに ※.(  )筆者が赤字追加記入した。

四世 永正
童名:保久利、號(号)脱機。嘉靖三十九(1560)年庚申生。万暦四十八(1620)年庚申月日不詳卒、寿・七十三。
※.『嘉善氏五世永安小宗』家譜に「父元祖嘉平首里大屋子永展。四世石垣親雲上永正、嘉靖二十九(1550)年庚戌生、万暦四十八(1620)年庚申卒、寿・七十一。號(号)脱機」。
※.『嘉善氏五世永定小宗』家譜に「父元祖嘉平首里大屋子永展、四世頭石垣親雲上永正。嘉靖二十九(1550)年庚戍生月日不詳。万暦四十八(1620)年庚申卒月日不詳、寿・七十一。號(号)脱機」。
以上のことから※.嘉善氏四世石垣親雲上永正(童名:保久利、1550~1620年卒)。

父が永師。※.嘉善氏四世桴海与人永師(童名:石戸能、生忌年月日不詳)。
母が伊勢山。

室は宇那利?(宇那比戸)。長栄氏石垣親雲上女子也。生死月日及道號不詳。
※.『長栄姓大宗信保』家譜には「父長栄氏四世石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不傳)の長女宇那比戸、生月日不詳。嫁于嘉善氏石垣親雲上永正。」
※.『嘉善氏五世永安小宗』家譜に「母長栄氏石垣親雲上信名女宇那比戸、生寿倶不詳。」
※.『嘉善氏五世永定小宗』家譜には「母長栄氏石垣親雲上信名女宇那比戸、生寿不詳。」

長女が多比。為本室所生、生寿不詳。

長男は永政。為本室所生。※.嘉善氏五世平良親雲上(友利首里大屋子職兼務)永政(童名:満慶山、1680~卒不明)。
※.『嘉善姓大宗永展』家譜には「五世永政」項に下記の通りに書かれている。
「尚寧王世代万暦年間(1589~1619年)に嘉平首里大屋子職、1613年宮古島の友利首里大屋子転任、1618年嘉平首里大屋子再任。万暦四十一(1613)年癸牛月日不詳卒、亨年・三十二」。
※.『宮古島在番記(写)』には「一.万暦四十一(1613)丑年ヨリ同四十七(1619)未年迄頭役七年 八重山人 平良首里大屋子 字モサ 氏名乗不知」。

二男が永將。母が妾、川平村住民無系(百姓)其の父は不知為何人。前(本)宮良、崇禎年間(1628~43年)任 頭職有犯政法事貶官職被處火刑。其以前官爵勲庸及生寿不可考。無後胤。
※.『八重山島年来記』の崇禎三 庚午(1630 )年 の条には「万暦年間 1573~1619年) に宮良頭を勤め」と記されている。
※.初代宮良頭の毛裔姓大宗宮良親雲上安英(童名:二千代、1547~1619年卒)が告老致死だと推察、1619~1624年まで2代目の宮良頭職を勤務。嘉善氏五世宮良親雲上永將(童名:ほくりむい・保久利思、生不明~1624年卒)。

三男は永弘。前宮良。崇禎年間(1628~43年)任。頭職興兄永將。因有同罪。貶流罪、渡名喜島。以前之官職爵勲庸及生寿于不可考。遂無後胤。
※.1624~30年まで3代目の宮良頭職を勤務。1630年渡名喜島へ流刑、1634年薩摩の命により渡名喜島で1635年焚刑。嘉善氏五世宮良親雲上永弘(童名:ませ・真勢、生不明~1635年卒)。

四男が永安。為本室所生、別有家譜。
※.『嘉善氏五世永安小宗」家譜-嘉善氏五世西表首里大屋子永安(童名:茂志美、1587~1674年卒)。
五男は永茂。兄永政因無男子継家統。※.嘉善氏六世石垣与人永茂(童名:鶴千代、1592~1629年卒)。

六男が永定。母妾不知何人為女。別有家譜。
※.『嘉善氏五世永定小宗』家譜には「五世永定 童名は保久利思、號が通屋宗玄、行六(六男)、嘉靖二十九庚子(「嘉靖二十九年」は庚戌で1550年、「庚子」は万暦二十八年で1600)生忌寿倶不詳。母が長栄氏(四世)石垣親雲上信名の女、宇那比戸生寿不詳」という内容で記されている。1636年キリスト教の宗門改め(踏み絵)によりキリシタンとして発覚、1638年薩摩の命により焚刑。嘉善氏五世宮良与人(崎原与人)永定(童名:保久利思、1600~1638年卒)。

万暦年間(1573~1619年)為石垣与人。
尚寧王世代(1589~1620年)
同二十九(1601)年辛丑任、石垣頭職。
同四十三(1615)年乙卯、致任。

『嘉善氏五世永定小宗』家譜の序文

4-11-1-1 『嘉善氏五世永定小宗』家譜より。

また、「1、家譜編集について」の項で(略)家譜編集に関して『嘉善氏五世永定小宗』家譜の序文を次の通りに記載されている。こんかいの序文の読み下しを「 」、(※ ).家譜を照合して筆者が記載した。

夫本島之修系図家譜也至于「それほんとうの系図家譜をしゅうするや」雍正七年「ようせいしちねん・1729年」己酉呈請 朝廷特蒙聖上浩恩「つちのとりにいたり ちょうていせいしとくにせいじょうのこうおんこうむり」准其本請賜當覆姓之命「そのもとをこいてまさにふくせいのめいをたまうをゆるす」。于茲此譜之一族以嘉善(※.善を嘉す)二字為姓「ここにこの譜の一族かぜん二字もって姓となす」。
元祖(※.父は仲間満慶山、生不伝~1500年卒)永展公(※.8人の兄弟の一人、嘉善姓大宗嘉平首里大屋子永展、童名:真勢、生日忌日不詳)四世永正公(※,嘉善氏四世石垣親雲上永正、童名:保久利、1550~1620年卒)之第六子以永定公(※,嘉善氏五世宮良与人永定、童名:保久利思、1600~38年卒)為姓宗修家譜乃始宗「元祖永展こうよんせいえいしょうこうのだいろくしえいていこうをもってせいそうとし家譜をしゅうするの始宗となす」。                                 以来十一世之間昭穆生寿名號冠嫁「いらいじゅういっせいにいたるのあいだしょうぼくせいじゅめいごうかんか」及官爵勲席寵榮等数日盡皆無不録於譜也「およびかんしゃくくんせきちょうえいとうすうじつにしてことごとくみなふにろくせざるなきなり」而不測有災難「しかしふそくのさいなんあり」。      乾隆三十六年歳次在辛卯「けんりゅうさんじゅうろくねん・1771年 さいじかのとうにあり」三月初十日辛亥辰刻地震有「さんがつはつとうかかのといたつのこくじしんあり」。怱海中大波漲漫「たちまちかいちゅうおおなみちょうまんす・此時陸地邑村水深二、三丈或五、六丈及十丈、二十丈也・このときりくちむらむらすいしんに、さんじょうあるいはご、ろくじょうじゅうじょうにじゅうじょうにおよぶなり」許多人民房屋流蕩「きょたのじんみんぼうおくりゅうとうす」。溺死者及至九千四百有余人「できししゃきゅうせんよんひゃくゆうよにんにいたる」。
嗟呼惜乎「ああおしいかな」。此時巳所修之家譜盡流失「このときにすでにしゅうするところのかふうことごとくりゅうしつす」。困是自始宗以于至十世之間生寿名號冠嫁領有不詳者也「これによりしそうよりもってじつせいにいたるのあいだのせいじゅめいごうかんかりょうつまびらかならずものあるなり」。但如官爵勛庸寵榮則幸托王上洪福修各勤書以備朝廷置者「ただしかんしゃくくんようちょうえいのごときはすなわちさいわいにおうじょうのこうふくにたくしおのおのきんしょをしゅうするをもってちょうていにそなえおくものなり」。盡皆録是赫然夫著也「かくぜんそれちょうするなり」。為此序乎「このじょとなす」。乾隆四十年丙申「けんりゅうよんじゅうねん・1775年 ひのえさる」。 (※.嘉善氏五世川平与人永森、童名:鶴、1732~1788年卒)。

4-15 『嘉善氏五世永定小宗』家譜より。

また、『嘉善姓一門と八重山歴史』のなかで「二、本宮良永将とキリシタン事件 (略)2、キリシタン事件 その関連と疑問」の項で『嘉善氏五世永定小宗』家譜の「五世永定」の項を新史料や家譜を照合し、さらに ※.(  )筆者が記入した。

『嘉善姓家譜 小宗』
記録
五世永定
童名:保久利思、號(号)通屋宗玄、行六(6男)。嘉靖二十九庚子。生忌日寿倶不詳。
※.嘉靖二十九庚子(「嘉靖二十九年」は庚戍で1550年、「庚子」は万暦二十八年で1600年)生。
1638年『薩摩旧雑記録』(後編巻94)の薩摩の覚があり、「八重山島の本宮良与人、キリシタンと判明したら早々に火あぶりにするように」と記載されている。
※.嘉善氏五世宮良与人永定(童名:保久利思、1600~1638年卒)。

父が元祖嘉平首里大屋子永展、(四世)頭石垣親雲上永正、嘉靖二十九(1550)年庚戍生月日不詳、萬歴(万暦)四十八(1620)年庚申年月日不詳、寿・七十一、號(号)脱機。

母が長榮氏(四世)石垣親雲上信名(童名:鶴千代、生寿不傳)長女宇那比戸・生寿不詳。
※.『嘉善姓大宗永展』家譜の「四世永正」の項に「六男永定、母妾不知何人為女。別有家譜。」

室が不知何人女。(誰の娘であるかわからない)。
長男が永命。※.嘉善氏六世石垣与人永命(童名:石戸能、生年月日不詳、1642卒)。

長女は真市、本室所生。康煕二十四(1685)年乙丑七月十日生。嫁于守恒氏石垣親雲上寛長。
※.『守恒姓大宗寛長』家譜の「一世寛長」の項に「守恒姓大宗石垣親雲上寛長(童名:武勢真、1600~1677年卒)の継室が嘉善氏崎原与人永定女真伊津、生年月日不詳。康凞二十四(1685)年乙丑七月十日死寿不詳。号・涼月。」
※.長女真市 (真伊津 ) 、生年月日不詳~1685年卒)。嫁于守恒氏石垣親雲上寛長(童名:武勢真、1600~1677年卒)。

尚寧王世代(1589~1629年)。
万暦年間(1573~1619年)為崎原与人(宮良与人)。以前乃官爵勲庸暦年久遠不詳。

『嘉善氏五世永定小宗』家譜の序文や本文の「五世永定」の項には「八重山キリシタン事件」との関わりは一切記載されていない。
意図的に永定の出生を父と同年生まれ、実家の『嘉善姓大宗永展』家譜に五世永定の母は兄たちの二男永將と三男永弘の母と同じ妾であると書かれている。また、室も不知何人女(誰の娘かわからない)と書いている。

『嘉善氏五世永定小宗」家譜に五世永定は万暦年間(1572~1619年)に崎原与人に就いたと記載されている。しかし、『八重山島年来記』の1630年条には「(略)また弟の宮良与人は、兄の本宮良に付き添い、法にそむいたので死罪に処せられた。とりわけ大城与人と関わりもなく、親類でもなかった(略)」と記されている。
「八重山蔵元」は1636年宗門改め(踏み絵)を実施したら宮良与人永定もキリシタンとして発覚、薩摩の命により1638年にオンナー(小さな御嶽・本宮良頭御嶽)で焚刑に処せられている。五世永定は1636~1638年ころには宮良与人に就いていることが分かる。

現存する家譜からその当時の宮良与人に就いた人々を出生の時系列に列記したら文珪姓大宗宮良与人師春(童名:真牛、生年忌月日不詳、※.1593年ころ生まれ。室の上官氏二世小谷仁也正淹の長女伊津思が1593年生まれから推察した。)から始まる。2代の宮良与人に1638年まで同一世代の嘉善氏五世宮良与人永定(童名:保久利思、1600~1638年卒)が受け継いでいる。
字登野城の岸若村住民の建昌姓大宗宮良与人廣教(童名:山戸、生壽不詳、1595年ころ生まれと推察 。三女多比が順天氏二世黒島仁也直元〈1625~1673年卒〉に嫁いでいる。ちなみに三女の多比という名称は嘉善氏四世石垣親雲上永正〈童名:保久利、1550~1620年卒〉の長女が多比と呼んでいる)へと3代の宮良与人職が受け継がれたと思われる。
4代の宮良与人が一つ世代下の文珪氏二世宮良与人師時(童名:樽、生年紀月日不詳、1610~1620年ころ生まれと推察。長女伊武津思〈1641~1698年卒〉が徳容氏三世波照間首里大屋子為政に嫁いでいる)などへと継承されている。その後、宮良与人不明、1681~1683年まで嘉善氏七世石垣親雲上永秋(童名:鶴、1647~1725年卒)へと引き継がれている。その当時宮良与人職は仲間満慶山(生不明~1500年卒)の子息の8人首里大屋子の子孫たちで継承されていくと思われる。

ちなみに、初代の白保与人職が仲間満慶山の8人子息の一人首里大屋子の孫である戴長姓大宗白保与人保長(童名・生寿不明)が就いている。

崎原与人の初代は1619年に嘉善氏五世宮良与人永定(童名:保久利思、1600~1638年卒)から始まり、梅公姓大宗崎原与人孫廣(童名:樽、1620~1661年卒)が2代の崎原与人を受け継いでいる。3代の崎原与人は不明。4代の崎原与人を1668年任の松茂氏四世崎原与人當有(童名:武義志、生年月日忌日寿不詳)へと引き継がれ1678年崎原与人・崎原目差の地頭職が廃止されている。

『嘉善氏五世永定小宗』家譜の六世永命の項に下記通り記載されている。   六世永命                                童名が石戸能、號は永林宗嘉、行一(長男)、生年月日不詳、崇禎十五年壬午(1642)死月日不詳。                        父が永定。※.嘉善氏五世宮良与人永定(童名:保久利思、1600~1638年卒)。                                母が不知何人。(母が誰であるかわからない)               室は嘉善氏(六世)新本与人(石垣与人)永茂、長女武那津思・生死年紀月日道倶不詳。                               ※.『嘉善姓大宗永展』家譜の「六世永茂」の項に嘉善氏六世石垣与人永茂(童名:鶴千代、1592~1629年卒)の長女伊那津(生月日不詳)。    長男が永榮。※.嘉善氏七世大浜与人永榮(童名:鶴兼、生寿共不詳)。   尚豊王世代(1621~40年)崇禎年間(1628~43年)に石垣与人。以前之官爵勲庸及元服年紀月日不詳。                    同十五年壬午(1642)奉 憲令為捧年祝賜件事到中山府公務全完回籍之時候不意遇着颶川平地方衝于石城礁破船溺死。
上記のことから、六世石垣与人永命は義父の新本与人から石垣与人に就いていた永茂の死亡後の1629年ころに石垣与人に就いたと思われる。その後、1642年に台風により川平石城崎で破船し、溺死したことが分かる。

1638年八重山キリシタン事件で焚刑された宮良与人永定の孫の七世永榮(童名:鶴兼)の生卒が「生寿共不詳・室は不知何人女」と記載され、孫の三代まで意図的につじつま合わせ行っている。その当時「八重山蔵元」は八重山キリシタン事件(1624~1642年)との関わりのある親族たちを隠蔽し波及を最小限にとどめようとしていることが家譜から推察できる。           嘉善氏七世永榮の童名:鶴兼は祖父の永茂の童名:鶴千代を引き継いでいることが分かる。また、室の不知何人女(誰の娘かわからない)は兄の宮良親雲上永弘の娘たちか、または毛裔氏二世大浜親雲上安師(童名:真蒲戸、1602~1674年卒)の大城与人時代(1619~1630年)に出生し不明の長女比呂真、二女真比らの可能性もある。

また、「五世永定の長女真市(真伊津)、為本室所生、康凞二十四(1685)年乙丑七月十日生、嫁于守恒氏石垣親雲上寛長」と記載されている。しかし、『守恒姓大宗寛長』家譜には「継室嘉善氏崎原与人永定女真伊津、生年月日不詳、康凞廿四(1685)年乙丑七月十日死、寿・不詳、号・涼月」と書かれている。意図的に1685年死亡を出生としていることが分かる。また、娘の次女伊武津思(1646年生まれ)が長栄氏六世大城与人信明(童名:福利盛、1636~68年卒)に嫁いでいることから五世永定の長女真市(真伊津)は1620~1625年頃に生まれたと思われる。長栄氏六世大城与人信明の童名:福利盛は義父の嘉善氏五世永定の童名:保久利思を引き継いでいることが分かる。
『嘉善姓家譜』が総累計32冊あった。内、18冊が『五世永定小宗』家を通しての分家であり、ほとんどが字登野城に居住している。

4-9-1 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

筆者が1988年先島文化研究所から『嘉善姓一門と八重山歴史』自費出版した際に郷土史家牧野清先生から序文を寄せてもらった。その論文のなかに「登野城村嘉善姓集団居住略図」(大正末期~昭和初期)に「然し上記の図で見るような往時血族集団の面影を、連綿として今日に伝えているのは他に例がなく、ひとり嘉善姓のみのようで、稀なる歴史的な事例であると思われる。然し永將とその一族は徳川幕府のきびしいキリシタン禁止政策にふれて断罪され、永將の屋敷は没収され、そこには当時大川のプンナーハカ(本名村) にあった行政庁八重山蔵元が移動してきた。それは1633年のことであったと伝えられる。爾来今日まで335年。ここが八重山の行政の中心地となってきたのである。(略)」と述べている。
この「嘉善姓血族集団居住略図」のなかに1500年オヤケアカハチ・ホンカワラの親子に殺害された仲間満慶山(生不明~1500年卒)の子息の8人兄弟の子孫たちと思われる。嘉善氏五世宮良与人永定( 童名 : 保久利思、1600~1638年卒 ) の子孫たちの末裔者と一緒に『戴長姓大宗白保与人保長 ( 童名・生寿不明 )』家、『建昌姓大宗宮良与人廣教 ( 童名 : 山戸、生壽不詳)』家、『守恒姓大宗石垣親雲上寛長( 童名 : 武勢真、1600~1677年卒)』家、『益茂姓大宗大浜与人里安( 童名 : 満慶、生不詳~1673年卒 ) 』家の末裔者が居住している。

『嘉善氏五世永定小宗』家からは嘉善氏八世石垣親雲上永恒(童名:石戸能、1657~1714年卒)が1704年15代の石垣頭職に就いている。また、嘉善氏九世石垣親雲上永副(童名:鶴、1685~1751年卒)は18代の石垣頭を1735年任じられ、1751年に告老致事をしている。1771年に13代の宮良頭に任じられた嘉善氏十世宮良親雲上永祝(童名:樽兼、1723~1771年卒)等を輩出している。

先島文化研究所編集で2006年1月に自費出版した『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』の「第二章 慶田盛村の繁栄と古謡ー三、大野ダキアヨウ(新川)」を下記の通りに記載した。
三、大野ダキアヨウ(新川)
新川(喜田盛)五四番地には八重山キリシタン事件(1624~42年)の時、1624年嘉善氏五世宮良頭・永將、1638年にも弟の宮良与人永定が焚刑(火炙り)に処された。最初に本宮良頭・永將が焚刑に処さられたので、本宮良の主の御嶽と呼んでいる。また本宮良頭の主のお嶽を別名オンナー(小さな御嶽)とも呼んでいる。五十年前までは、旧9月9日の重陽の節句には本宮良の主の永將を慕い、子供たちが本宮良頭の主の永將にあやかって健やかに育つよう、また大成するように願いをこめて神前に参拝し、厚く祭典を行っていた。
本宮良頭の主の永將が火刑に処される際には自作の辞世の句を歌い、平然と死に就いたと言われている。その歌が、次の「大野(ウフヌ)ダキアヨウ」だといわれる。その原歌、訳、解説は喜舎場永珣氏の『八重山古謡(上)』(1970年/沖縄タイムス社)からの引用である。

大野ダキアヨウ(新川)
原 歌              訳
ヨーイヒー(囃)
一 大野ダキ ヨーホー(囃)     大野原に咲いている
花カイシャ 上カラドゥ      花の美しさは 上部から見た方が
カイシャーリィ ヨーホー(囃以下略)美しい(外形の美)

二 広野ダキ 花カイシャ       広野に咲きほこる 花の美しさは
スバカラドゥ 美イシャーリィ   側方から眺めた方が 一層美しい

三 親子カイシャ 子カラドゥ   親子の円満な家庭は 息子等の理解による
夫婦カイシャ トゥジィカラドゥ  夫婦の愛情は 妻の譲歩による

四 布カイシャ ヌキィカラドゥ    反物が上品に見えるのは 緯糸よしあしによる
並ミカイシャ           縞柄が並に揃っているのは
勢頭カラドゥ           機織主任の手腕による

五 旅カイシャ 石垣ヌ主       上国の平安は 石垣領主の旅である
路カイシャ 宮良ヌ主      一路の平安の旅は 宮良頭主の旅である

(解説)
一 この古謡は子孫の伝承によると、「外形の美しさだけでは価値は評価出来ず、物質の奥に零妙きわまりなく秘められた命(零)こそ永遠不滅なものであると常に翁は説教しておられた。その真理を平凡なアヨウの表現し  て子孫に遺言として残されたと伝えられる風刺的なものである。

二 翁の紋所を観察するに四つ巴に十字を記している。これはとりもなおさず四つの巴は心の象徴であって、心すなわち神を意し、十字はキリストの十字架をかたどっている。これによって見ても翁の信仰は実に深かったことが伺える。

三 何故に大浜頭を詠ってないか。これは大浜頭が首里王府へ密告された張本人であったからこれを詠うことを省かれたと伝えられている。

四 この古謡のアヨウ尚豊王の世代に南蛮船が寄港してキリスト教を布教した。その時、宮良頭永將翁は国禁とは知りつつも支那人の通訳によってキリスト教の教養を知り、実に世界的宗教たることを悟り、これを信仰したのである。これが露見されてついに首里の法廷において裁判の結果、犯罪事実が明白になったので火あぶりの重罪に処せられたのである。いよいよ焚刑場に行く前にこれまでの胸中にたぎっていた感情が爆発して、この「大野ダキアヨウ」という即興詩となって謡い出されたと子孫ならびに村の古老達は伝えている。

八重山のキリシタン事件についての史料の一つの『八重山島年来記』崇禎三年 (1630 ) の条には事件のあらましが詳細に記されている。まずその部分をみてみよう。 ( ※.筆者の補足)

4-9-2 『嘉善姓一門と八重山の歴史』1988 年より。

4-9-3

4-9-4

『八重山島年来記』崇禎三庚午は『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(2006年)に「Ⅱ 八重山のキリシタン事件」を下記の通り記載した。

『八重山島年来記』崇禎三(1630)年の条には、後世、大城与人(毛裔氏二世大浜親雲上安師・1602~1674年卒)の三男の毛裔氏三世安維(1648~1706年卒)が1691年に大浜頭職に就いたときか、または五男の三世安資(1674~1726年卒)が1712年に石垣頭職に就いたときか、あるいは七男で嗣子の伯言氏三世政茂(1670~1748年卒)が1731年に宮良頭職に就いたときに、父の大浜親雲上安師のキリシタン事件との関わりを弁解したと思われることが記されている。

4-9-5 毛裔姓一門会作成の系図

まずその部分と要約が、『石垣市史叢書13―「八重山島年来記」』(1999年/石垣市)の中に下記のように記載されている(訳文の一部やカッコ内は筆者の補足)。

本宮良与申人、嘉平之住童名ほくりもい石垣親雲上長男ニ而候、万暦年間ニ宮良之頭職頂戴、隠居仕〔登野城村之内、岸若ニ住居仕〕たる人ニ而御座候、

訳――「本宮良という人(本の宮良親雲上永將。不可考~1624年卒)は、川平村に住み(父・永正が川平村に住み、永將は字登野城、岸若村に住んでいる)、童名はほくりもいという石垣親雲上の長男(長男は宮古の平良親雲上で友利首里大屋子兼務の永政、宮良親雲上永將は二男である)である。万暦年間(1619年に毛裔姓大宗宮良親雲上安英が死亡している。もし、安英が告老致死職したと考えたら、1619年に永將は宮良頭職を継承していることになる)に宮良間切の頭職をいただき、隠居して登野城村の内、岸若村に住んでいた人である(その当時一族で隠居した人は父の永正であり、永正は1550年生まれで1620年死亡、石垣頭を1601年から1615年まで勤めて隠居している)」

生質才発利口ニ有之、文武之道も相嗜、剰米穀太分相貯、財用令満足罷在候、然処、女好之甚敷人ニ而、ほんな村之住童名ミつきま大浜親雲上妻なへやま
与申女致密通、且又はんな村之住童名ほくりもい石垣親雲上妾川平村高屋にかい与申女致密通、男子壱人生産仕置候、其外ニ茂人々之妻子色好き者ハ皆奪取妾ニ召成置候、右ニ付而大口事ニ成立、数艘立双方懸合之者共召列上国仕、逢糺明候処、本宮良事段々越度而巳有之、其上先年冨崎之沖江南蛮船漂着之時、牛数拾疋致進物、南蛮人取入、数日自家ニ召置稽古物仕候段致決定候、然者
南蛮人之儀、疑敷宗旨ニ而候得者、其慎も可有之処、無其儀、御法様相背候儀、難遁罪科、被行死罪、

訳――「生まれながらに才にたけ利口で、文武の道もわきまえ、そのうえ米穀も十分たくわえ、財産も満足するほどであった。しかしながら、女好きのはなはだしい人で、ホンナ村の童名みつきま大浜親雲上(憲章氏四世英森。1602~42年卒)の妻なへやまという女(大城与人安師の妹。不詳~1644年卒)と密通し、また、ハンナ村の童名ほくりもい石垣親雲上(長栄氏五世信本。1592~1661年卒)の妾で、川平村の高屋にかいという女とも密通し、男子一人を生んだ。その他にも人びとの妻子で色好みの者はみな奪い取って妾にしていた。そのようなことで大ごとになり、幾度も船を仕立てて双方がかかわりあいの者を連れて王府に上国し糺明したところ、(本)宮良にはいろいろ過失ばかりあった。そのうえ、先年(1624年)冨崎の沖へ南蛮船が漂着した時には、牛数十頭を進上し、南蛮人(ドミニコ修道会のファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父)にとりいって、数日間自宅に置いて稽古ものを(キリスト教の教えを習う)していたことが明らかになった。ところで、南蛮人(ルエダ神父)は疑わしい宗旨(キリシタン)なので、(本の宮良親雲上永將は)その用心をすべきであるがそれもせず、法にそむいたことはのがれられず、死罪となった。
(補足)1624四年、石垣親雲上(長栄氏五世信本。1592~1661年卒)が琉球王国に来て、同僚宮良親雲上(永將)がキリシタン宗旨を奉じていると訴えたので王国は柏姓三世小禄親雲上良宗(1582~1656年卒)を派遣し、査問した結果、本宮良親雲上永將がキリシタンと判明したので、宮良頭職を免職し、直ちに字新川五四番地、慶田盛村の憲章氏四世英森の屋敷前のオンナー(小さな御嶽)で仲間満慶山一族たち(嘉善姓一門、憲章姓一門の人々)や身内の見守る中で火炙りの刑に処した。その後、小禄親雲上良宗は仲間満慶山一族が関わった八重山の島々の与那国島・波照間島(叔父の憲章氏二世英恒が万暦年間に波照間島の首里大屋子の役職に就いている)並びに宮古島(首謀者本宮良親雲上永將の兄の嘉善氏五世永政が1613年から1619年の間、宮古の平良頭と友利首里大屋子の役職を兼務している)などの改宗事務をして帰国した。またルエダ神父は粟国島へ流され、その島の海上で殺害された。同年、後任の宮良頭は弟の三男・永弘(生不可考~1635年卒)が任じられた。

家財逢欠所、子孫不残波照間・与那国・宮古島江流罪被仰付候、其弟童名ませ宮良親雲上も懸合ニ而糺明之刻段々偽有之ニ付、渡名喜島江流罪被仰付候、又其弟宮良与人ハ「兄」本宮良ニ付随法外仕候ニ付、被処死罪候、

訳――「家財は没収され(1632年、本の宮良親雲上永將か、または前宮良親雲上永弘の屋敷跡地に八重山蔵元が移転してきた)、子孫はのこらず波照間島・与那国島・宮古島へ流罪となった。本宮良の弟、童名ませ宮良親雲上(三
男の嘉善氏五世永弘)もかかわりがあり、糺明の時いろいろいつわりがあったので、渡名喜島へ流罪となった。

(補足)1629年、トマス・デ・サン・ハシント・西六左衛門神父(1590~1634年卒)が来島し、前宮良親雲上永弘や大城与人安師らと接触した。その件で1630年、王府に上国し釈明したが有罪となり、前宮良親雲上永弘は宮良頭職を解かれて渡名喜島、大城与人安師は慶良間島へ流刑された。一六三四年薩摩の指示により、翌年、前宮良親雲上永弘は渡名喜島で火刑に処された。1631年に宮良頭職を山陽姓大宗長光(1584~1661年卒)が任じられた。
また弟の宮良与人(六男・永定。不詳・1600~1638年卒)は、兄の本宮良(本宮良親雲上永將)に付き従い、法にそむいたので死罪に処せられた。

(補足)1636年キリスト教の宗門改めの踏み絵を行った結果、六男の宮良与人永定もキリシタンとして発覚、1638年4月薩摩からの指示により、兄で本の宮良親雲上永將と同じ場所のオンナーで火刑に処されている。

就中大城与人ハ懸合ニ而も無之、又親類ニ而も無之候処、本宮良右之口事ニ付而上国可仕与川平廻船風見合候刻、本宮良旅送ニ参、夜終船中ニ而相談候折節、本宮良申分ニ、長田堂村之住童名空広前大浜親雲上儀、先年大浜親廻之時、汝妹崎原つかさ蹴殺候、然者汝為ニハ敵ニ而ハ無之候哉、此節私
与同心ニ而罷登、此事も致訴訟返報仕度由相催候ニ付、酒宴之中伴輒請合い、

訳――「とりわけ大城与人(実父・伯言氏二世大浜親雲上政保と母・毛裔姓大宗宮良親雲上安英の長女・於那比戸との長男・政師が母の実家の毛裔姓大宗安英家に男子が無いので跡目相続をし安師に改名。1602~74年卒)は(前の宮良親雲上永弘)かかわりあいもなく、親類でもなかったが、本宮良(前宮良親雲上永弘)がこのようなことで上国するために川平湾へ回船して風待ちをしていた時、本宮良の旅送りに来て、夜中船内で話をした。その時、本宮良が言うには、『長田堂村の童名は空広で前の大浜親雲上(長栄氏五世信行。1589~1640年卒。1630年に大浜頭職を解かれて隠居し、同年憲章氏四世英森が大浜頭職に就いている)は、先年(妹・崎原つかさの娘、二女・伊津善〈1622~1661年卒〉が1622年生まれなので1622年から30年の間の年)大浜間切の親回りの時、あなたの妹の崎原つかさを蹴り殺した(崎原つかさは大城与人安師の妹で三女・思戸が大浜村に住んでいる無系の黒島仁也蒲戸に嫁いでから、崎原御嶽の司をしている。夫の〈真〉蒲戸は、義兄の安師が石垣・大浜頭職に就いた時に義兄の安師を通して系持ちになり、家譜を賜って「岳昌姓」「致」の名乗頭をもらった岳昌姓大宗致崇である。岳昌姓大宗致崇は崇禎年間に崎原目差の役職に就いている。致崇の長女・宇那比戸が長興氏三世平田仁也善信に嫁ぎ、二女・伊津善も、〈兄〉大浜親雲上安師に嫁いで血族結婚をしている)。それならば、あなたにとっては敵ではないのか。今度わたしと心を一つにして上国し、このことも訴えてしかえししよう』とさそったので、酒宴の中でたやすく請合った」

また酔醒不申内、順風相成、船帆懸ケ最早沖江乗出候故、無是非みすから罷登申たる事候得共、本宮良事才覚利口、余人ニ相替達者ニ有之候得者、今度之口事ハとかく本宮良之仕勝へく与存、始終彼方江相付罷在、時宜見合大城も願可申出与存居候処、案之外本宮良負ニ成及厳科、大城与人も糾明中本宮良
江相付罷在候儀ニ付、慶良間島江流罪被仰付、崇禎十五壬午御免許ニ而ほんな村之住ミつきま大浜親雲上乗船乗合罷下候処、九月十九日石城崎ニ而破損漸生揚、

訳――「まだ酔いもさめないうちに順風となり、船は帆を上げてすでに沖へ乗り出していたので、どうしようもなく自ら上国したことであるが、本宮良(前宮良親雲上永弘)は才覚利口で、他の人とはちがって達者なので、今度のこと
はいずれにせよ、本宮良が勝つと思い、いつも本宮良についていた。時期をみて大城与人(安師)も願い出よう(妹・思戸の蹴り殺しの件)と思っていたが、思いのほか本宮良は負けて厳罰となった(渡名喜島へ流罪)。大城与人も糾明中は本宮良についていたので、慶良間島へ流罪となった。崇禎十五壬午(1642)年に(祖父の三司官大新城親方安基一族、義兄の石垣親雲上信本、義兄弟の大浜親雲上英森らの働きかけ)許されて、ホンナ村のみつきま大浜親雲上(義兄弟の憲章氏四世英森。1602~1642年卒)の乗り船に乗り合わせて下ってきたが、九月十九日に(川