『沖縄やくざ戦争』(おきなわやくざせんそう、Terror of Yakuza )は、1976年の日本映画。主演 : 松方弘樹・千葉真一、監督 : 中島貞夫、製作 : 東映、カラー・シネマスコープ、96分[1]。同年の京都市民映画祭では千葉真一が本作で主演男優賞を受賞した。
解説[編集]
第4次沖縄抗争をモデルに映画化されたが、封切り公開時は未だに抗争が続いていた。さらに千葉真一が扮した国頭正剛は実在する旭琉会理事長・新城喜文であることをはじめ、そのほかの登場人物も誰をモデルにしたか明確に判ることから、沖縄県では興行されなかった作品である。中島貞夫はドキュメンタリー・タッチで演出し[2]、凄惨な戦いを描いている。千葉が演じた国頭は1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』で演じた大友勝利と共に人気の高いキャラクターだが、千葉自身は「やくざ映画で賞(京都市民映画祭の主演男優賞)をくれた」と語っている[3]。
ちなみに予告編のBGMには「狂った野獣」と「暴走パニック 大激突」の一部が使われており、「博徒外人部隊」と「実録外伝 大阪電撃作戦」の一部と本作の未公開映像が使われている。
製作経緯[編集]
東映は1973年の『仁義なき戦い』以降、東映は実録ヤクザ路線として各地の暴力団抗争をモデルとして映画を次々製作。広島、神戸、大阪、九州とやり尽くし、新たなネタと舞台を模索した[4]。1975年、岡田茂東映社長(当時)は、沖縄を舞台にした実録映画の製作を指示[5]。日下部五朗と笠原和夫とで沖縄に取材に行き『沖縄進撃作戦』というタイトルで脚本は完成したが、沖縄で東映の映画を独占的に配給していた宜保俊夫を登場させたことで岡田社長が蹴り頓挫した[4][5][6]。半年後、再び企画が持ち上がったが、笠原は別の仕事に入っていて脚本は神波史男と高田宏治に交代し製作されたのが本作となる[4][7]。神波は1971年に「博徒シリーズ」第9作で沖縄を舞台に『博徒外人部隊』を書いたことがあった。日下部と神波、高田は抗争の最中に現地に入り取材を敢行、当時の沖縄は一触即発のピリピリしたムードだった。脚本は前半が高田、後半は神波が担当した。このため前半と後半でタッチがかなり違う。
撮影[編集]
監督の中島貞夫は1969年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』の撮影で沖縄を訪れ、琉球映画貿易に協力してもらい、嘉手納基地からベトナムへ爆撃に行くB-52が爆弾を積み込むところを撮影し映画に入れた[8][9]。これを約束を破ったと琉球映画貿易の宜保社長が怒り、沖縄でロケが出来なくなった[7][8]。つまり沖縄で取材はしたが、沖縄で撮影はできず、ほぼ全編京都で撮影している[8](予告映像では「抗争渦中の 沖縄現地に乗り込んで 大ロケーション決行」と字幕が出るがもちろん事実ではない)。渡瀬恒彦はまだ顔が割れてなかったことから、撮影を助監督に任せ、観光客の振りをして宜野湾で歩くシーンのみ沖縄で隠し撮りした[9]。その他『恐竜・怪鳥の伝説』(1977年)の特撮で、フロントプロジェクションという機材の購入が決まっていたため、2、3ヶ所それを使用し合成を行っている[7][8]。台詞は沖縄方言が難し過ぎて全く無視した[7](ただし、「叩き殺せ」を意味する「たっくるせ」のみ用いられており、本作が元で広く知られることになった)。
那覇の空港に着いた時、日下部の名前を見た空港職員が「『仁義なき戦い』の!」と興奮して叫んだ。プロデューサーの名前まで覚えている程、沖縄では『仁義なき戦い』の人気が凄かったという[4]。
後続作品への影響[編集]
1972年の沖縄の本土復帰以前に作られた沖縄を舞台にした映画としては、前述のように1971年の『博徒外人部隊』や1966年の『網走番外地 南国の対決』などがあるが、ほとんどが反戦映画か芸術映画であった[10]。しかしこの『沖縄やくざ戦争』を切っ掛けに『ドーベルマン刑事』『空手バカ一代』(1977年)『沖縄10年戦争』(1978年)などが製作され、1970年代に日本のアクション映画に最初の沖縄ブームが到来した[10]。
ストーリー[編集]
1971年12月、本土復帰を翌年に控えた沖縄では、本土系暴力団の侵攻に対抗すべく、沖縄連合琉盛会を結成したが、傘下の国頭組で内紛が発生していた。本土系暴力団はその隙をついて仕掛けてくる。血みどろの戦争が始まった。