生きることそのものが、大変なことです。
『他力』五木寛之

毎日は否応にもなくやってくる。生きることの素晴らしさを説いたり、よく生きたいと誰もが思ったり、ウェルビーイングということばのひろがりって、ビジネスマーケティングでも当然あるけれど、みんながうまく生きられていない感覚の裏返しにもなっている。
迷い、不安を抱え、宙ぶらりんに生きる。漫然と過ごしても、1日はすぎる。アイドル推しでも高校野球でも本を読んでも、なにに熱中して過ごしても、1日はすぎる。

人生で劇的な場面なんて、そんなに多くは訪れない。曲線が極端に上振れする幸せなできごとではない日常。そのなかで、よく生きようともがく。
ただ、それがどうであれ、生きることそのものの大変さを認めあって、讃えあうことなんて日頃したことがない。ああ、生きててよかった。この感じはまだあるかもしれない。でも、「生きることって大変で、よく生きてるよ自分」と自身に声をかけたこともない。これは「よくがんばってるよ、自分」とはちょっと次元がちがう気がする。

昨今は「生きづらさ」という感覚を漠然と多くの人が抱えていると思う。昨今といったけど、これまでの時代もずっとそうだったんだと思う。
いまの時代がとりわけ、他の時代にくらべてよくも悪くもなったのかは、どうにもぼくはよく分からない。戦時中にくらべたら、恵まれた時代だ。っていうのは簡単だけど、それはそれだ、とも思う。台湾人のパートナーとともに生きていると、戦争だって身近に感じる。でも、備えるなんていっても、備え方も分からない。祈るしかない。

まあ、多かれ少なかれ、みんな生きづらさを抱えているんだけど、そこに今までいじょうに敏感になって目を向けはじめられるようになった時代なのかもしれない。30年前だって、子育ては大変だっただろうし、男性であらねばならないプレッシャーだってそれなりには存在していただろうし、周りに生きづらさを分かちあえない風潮は今より強いことが生きづらさを高めていたかもしれないし。

ひとりひとり、抱える大変さがちがっていて、表面的には他人でしかないんだけど、生きづらさに触れると、少しだけそのひとと、存在の次元でつながれた感覚になる。ぼくは、けっこう雑談も苦手で、人付き合いも苦手で、でも深い生身のことばを交わし合えるような場にある、ということは比較的に苦しくない。

よく考えたら、仕事でもセクシュアリティにまつわる方や、不妊治療で葛藤をもっていた方の話を聴いたり、対話の場をつくったりしているのも、そういう自分の欲望なのかもしれない。そうしないと、つながれた気にならないから。

毎日ちゃんと生きようとしていて、偉い

そんな一節が『持続可能な魂の利用』という小説にでてきた。今読んでいる。主人公(だと思われる)敬子が、家の近くのコンビニに夕飯を買いに行く場面。コンビニは、スーパーよりも、余裕がない場所かもしれない。限られた選択肢、料理をつくることも大変だから、コンビニに来ている人はそれでも食事をそこで賄おうと、生きようとしている。といった感じ。もちろんそれは、敬子のある種の心理が投影された見方だとおもう。

でも、なんというか妙にこころに残った一節だった。コンビニには最寄のローソンまで3分あるけば着く。駅の帰り道に踏切の目の前にあるファミリーマートも立ち寄ることがある。コンビニは自分もよくつかう。夕飯をコンビニで済ませることはよっぽどないけど。それでも、イートインのスペースでご飯をしている老人や、無駄に広い駐車場の片隅で2-3人の学生があつまり、話しながらパンを食べたり、焼きそばを食べたりしている風景は、生きる一場面だよな、と思う。

ただ、「偉い」とか「ちゃんと生きようとしている」というのは、どこか自分自身への生きようとすることを奮い立たせようとしているかのような、なんとか生きること自体を続けていこうとしているような、そんな雰囲気もかんじる心理描写だな、と思った。それは、ぼくにとっても決して分からない感覚ではなかった。

「生きることって大変で、よく生きてるよ自分」と自身に声をかけたこともない。そう、かけられたこともない。そこまで、讃える必要もないかもしれない。でも、生きること自体で、もうとんでもなく大変なんだよな、という「生」の受け止め方は、「よく生きよう」と肩肘をはりがちな風潮を撒き散らしている現代社会へのすきまをつくり、孔をあけてくれる。少しだけ、息がしやすくなった気がした。