デーブ・ロバーツ: Dave Roberts;本名:デビッド・レイ・ロバーツ〈David Ray Roberts〉、1972年5月31日 - )は、沖縄県那覇市生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)、プロ野球監督。現在はMLBロサンゼルス・ドジャースの監督を務める。

MLB史上初の日本生まれの監督であり[1]、日本生まれの監督として初めてワールドシリーズで指揮をとり世界一になった[2][3]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1972年、返還直後の沖縄県那覇市アフリカ系アメリカ人の父親(退役軍人)と日本人の母親の間に生まれる。その後一家はカリフォルニア州サンディエゴに移住。カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進む。

プロ入りとタイガース傘下時代[編集]

1994年MLBドラフト28巡目(全体781位)でデトロイト・タイガースに指名され、6月9日に契約を結びプロ入りを果たした[4]

インディアンス時代[編集]

1998年ジェロニモ・ベローア英語版)とのトレードで、ティム・ウォーレルとともにクリーブランド・インディアンスへ移籍。

1999年同年のパンアメリカン競技大会英語版)の野球アメリカ合衆国代表に選出された[5]。大会後の8月7日の対デビルレイズ戦でメジャーデビュー[4]

ドジャース時代[編集]

ロサンゼルス・ドジャース時代
(2004年5月16日)

2002年からはロサンゼルス・ドジャースでプレーし、移籍1年目の2002年はチーム最多の45盗塁。

2003年は2度の故障者リスト入りで出場試合数が107だったが、前年に続き2年連続で40盗塁。

レッドソックス時代[編集]

2004年はシーズン途中の7月31日にボストン・レッドソックスへトレードで移籍。両チームで41回の盗塁を試みて38回成功し、成功率92.7%は両リーグでカルロス・ベルトランの93.3%に次ぐ[6]。ポストシーズンでは0勝3敗で迎えたヤンキースとのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)4戦目で1点ビハインドの9回に代走に出て盗塁を決め、チームはその後4連勝、ワールドシリーズ優勝を果たした。

パドレス時代[編集]

サンディエゴ・パドレス時代
(2006年6月9日)

2005年サンディエゴ・パドレスへ移籍した。

2006年は、前年オフにメジャー屈指の中堅手であるマイク・キャメロンが加入したため、左翼手にコンバートされた。6月には守備の際にフェンスに激突し、故障者リスト入りする。故障が多いので左投手が先発するときは休養を取りながらプレーした[7]。この年に記録した13三塁打は、トニー・グウィンとならぶ球団記録であった[8]

ジャイアンツ時代[編集]

2006年オフにサンフランシスコ・ジャイアンツと3年総額1800万ドルの契約を結んだ。

2007年は最も得意な中堅を守ることになった[7]。この年は故障で戦線離脱したが、チーム最多の31盗塁を決め、バリー・ボンズ以来球団史上10年ぶりに30盗塁を達成した[9]

2009年4月10日に放出され、12日に現役引退を発表。

引退後[編集]

サンディエゴ・パドレスでのコーチ時代
(2013年9月3日)

引退後はパドレスの特別補佐役を務めていたが、2010年に血液のガンを発症して闘病。克服後の2011年にコーチとして現場復帰を果たした[10][11]

2015年6月15日のオークランド・アスレチックス戦では、前日の14日に解任されたバド・ブラックの代理監督を務める[12]。これによってMLB史上初の日本出身監督となった[1]

ドジャース監督時代[編集]

2015年11月23日に古巣ドジャースの新監督に就任することが発表された[13]

2016年は就任1年目にして地区優勝し、最優秀監督賞を受賞した[14]

2017年2018年には再び監督としてワールドシリーズに出場したが、いずれも敗退している[15]2018年のワールドシリーズ第4戦での投手交代は当時のアメリカ合衆国大統領であったドナルド・トランプに批判されたこともある[16]

2019年は地区優勝したものの、ワシントン・ナショナルズとの2019年のNLCSに敗れてリーグ優勝を逃した。

2020年には監督として2年ぶりにワールドシリーズ出場を果たし、タンパベイ・レイズとのワールドシリーズを4勝2敗で下し、日本出身監督としては初のワールドシリーズ優勝監督となった[3][17]

2022年オフの11月15日に全米野球記者協会(BBWAA)から1位票が8、2位票が4、3位票が5の計57ポイントで最優秀監督賞2位となった[18]