僕が沖縄のテーマパーク開業プロジェクトに飛び込んだワケ 

初めての方は初めまして、という沖縄の会社で人事責任者をしている岩崎と申します。

当社は、2025年に沖縄の大自然を舞台にした「JUNGLIA(ジャングリア)」という大型テーマパークの開業を目指す開発運営会社なところ、大半は私個人のキャリアや考え方に割いているので、パーク自体の情報を期待されて読まれると期待外れかもしれません。

しかしながら、何か将来に対してモヤモヤしたものを感じている人にはひとつの考え方として参考になることもあるのではないかと思っています。また、東京のスタートアップを飛び出してそんなキャリアがあるのか、ということで面白がって読んでいただけるかもしれません。

「前向きに日本を変えていきたい」と動いている人や会社の存在を知っていただいたり、「面白そうだからパークができたら行ってみよう」と思っていただけるだけでも非常にありがたいです。

ジャパンエンターテイメントとは

恐らく大多数の人にとって聞き馴染みのない社名だと思いますので、はじめにジャパンエンターテイメントという会社についてご説明します。

当社は、沖縄北部テーマパークの実現に向けて設立した会社で、2025年の開業後はそのパーク運営を一手に担う会社です。沖縄を代表する企業や、旅行・航空・不動産・エンタメ業界等の多くの株主にお力添えをいただきながら開業準備を進めています。

その株主の一社であるは、「マーケティングとエンターテイメントで日本を元気に」という大義の下、そのマーケティング力を武器にして刀流の地方創生に取り組んでいますが、その中でも目玉となるビッグプロジェクトとなっています。

このプロジェクトへの思いを綴る前に、自身の経歴についても少し紹介させてください。

私は山口県下関の海に近い小さな町で生まれました。ちなみに父方の祖父母は漁師をしていたので、祖母が毎日その日の魚を売りに行く途中で、実家に新鮮な魚を届けてくれたのをよく覚えています。

大学卒業後、新卒では三菱商事という総合商社に入社し、自動車事業の管理部門にて会計や税務、財務等の業務に携わりました。

その後、人材系ベンチャー企業である株式会社LiBの創業期に入社し、創業事業の立ち上げに営業として関わりました。

次いで、日本最大級のメタバースプラットフォーム「cluster」を運営するクラスター株式会社に経営メンバーとして参画し、COO、CFO、人事責任者といった職務に従事しました。

そして今の会社に至りますが、3社連続で売上ゼロからの立ち上げフェーズです。もしかすると既に立ち上げのスリリングさから抜け出せなくなっているのかもしれませんが、必要なことであれば営業でも月次決算でも引っ越しでも法務でもなんでもウェルカムな気性とは相性が良いように感じます。

なぜ商社→人材→VR→テーマパーク?

一本のCMが人生を変えた

自身のキャリアを話すと、業界に一貫性がなく、「この人は何がしたいんだろう?」と思われることがしばしば。自分自身として会社を選ぶ軸としてはそこまで変わっていないのですが、せっかくなので沖縄のパークに至るまでの変遷についても触れておきます。

最初のキッカケは、8歳くらいの時に家族で訪れたインドネシアです(恐らく1995年頃)。そこでは、自分より明らかに年下の子が働いている状況を目にして、衝撃を受けました。中には綺麗な貝殻を見つけてきて、幼い私に売りつけようとしてきた子供もいました。

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ツアーでとある村を通り過ぎる時に、なぜか現地の子供が100円玉をたくさん持っていて、どうやら千円札に両替してほしいと言っているようでした。ツアー客の一人がそれに応じて千円札を渡し、代わりに100円玉をもらったのですが、歩きながら数えてみると9枚しかありません。振り返った時にその少年はもうそこにはいませんでした。

私が観光気分で楽しく遊んでいる中、目の前の子供達は毎日生きていくために必死だったのです。その瞬間にその状況と意味を深く理解していたわけではないものの、「自分がいかに裕福であるのか」と幼いながらに感じ、歳を重ねるにつれて世界の貧困問題や紛争解決に強く関心を持つようになりました。(※ここでいう「裕福」というのは、まずマズローの欲求階層でいう「生理的欲求」「安全の欲求」が当然のごとく満たされていることを指します。)

そんな経緯もあって、大学の途中までは国際協力・途上国支援に関われる仕事に就きたいと思っていました。ただ、もし国際機関で働くにしては今の英語力では程遠いと感じていたため、より途上国理解を深めながら安く英語を学べるという観点で、当時まだ国内に内戦を抱えていたフィリピンに半年間留学することを決めました。

留学時代の話は割愛しますが、留学中も変わらず途上国支援の仕事に就きたいと思っていました。ところが、日本に帰国して最初にテレビをつけて流れてきた一本のCMによってそれまでの考え方に大きな変化が起こります。

それは、韓国の総合電機メーカーであるLGが日本のゴールデンタイムでゴルゴ13を使ったCMでした。

え、それがどうしたの…?

そう思われた方も多いかもしれません。
2009年当時、たしかに私が留学したフィリピンを含む東南アジアでは、中国製や韓国製の安価な電化製品が使われ、日本製以外の自動車が走っている光景は当たり前になりつつありました。

でもそれはあくまで日本以外のお話。
電機産業は自動車産業とともに日本の高度経済成長を支えてきました。私が留学をする前は、ソニーや三菱電機、東芝、パナソニック、シャープのような世界に名を馳せる電機メーカーを多数擁する日本において、ゴールデンタイムに韓国の電化製品がプロモーションをしていた記憶はありませんでした。

そんなお膝元日本で突如目に入ってきたLGのCM。
日本よりも経済発展が遅れていた(と思っていた)アジアの企業が日本のマーケットを奪いに来ていました。

失われた何年というレベルではなく、日本の産業は放っておくと今後さらに衰退していくのかもしれない…

たった一本のCMが痛烈な危機感をもたらしました。
そして実際、さきほど挙げた企業の多くが2010年代に次々と厳しい経営の舵取りを強いられたことはニュース等で周知の通りです。

世界の紛争や貧困問題への関心もさることながら、日本の産業を強くするところにも関わっていきたいという想いから、新卒では総合商社への入社を決めました。

商社からベンチャーの世界へ

商社で社会人としての基礎教育を叩き込んでいただきました。
しかし、経済指標の発表等でも、また実際に商社で様々なビジネスを見聞きする中でも、グローバル経済の中でプレゼンスの落ちていく日本を感じました。

この頃から「日本をもっと元気に」という人生の軸がクリアになりました。

途上国支援や紛争解決に関わりたいという思いがなくなったかというとそんなこともありません。ただ、日本に余裕がなくなれば途上国支援もままなりません。

自らが軸足を置くこの日本という国が衰退していくのは悔しい。将来日本で生まれる子どもたちが末永く豊かに幸せに暮らしていける未来に貢献したい。そういう気持ちが徐々に強くなってきました。

総合商社もこの20-30年で大きく価値創造のあり方・稼ぎ方を変化させてきていました。そんな中、あえて巨大資本の会社を飛び出して、歴史やしがらみのある大企業ではできないような新しいアプローチから日本を盛り上げていきたい、そういう事業を主導して立ち上げられる人に早くなりたい、と考えるようになりました。

日本を強くする方向性として当時考えた軸が下記の2つです。