一般的には、ドーパミンが増えて喜びの感情が得られます。

しかし、同じ刺激が繰り返されると、ドーパミン量が減り、回数を増やしたりより強い刺激を求めるようになります。

 

オキシトシンが関与していると言われます。ただし、高度脳機能の価値基準で大きく違いがあります。蛇や爬虫類、昆虫、毛虫、等にも「かわいさ」を感じる人がいたり、無機物である車や機械、アニメやフィギュアも脳の発達段階でホルモンであるオキシトシンが価値に関与していると言われています。発達段階で獲得した価値観は人の多元性を作る機会であると同時に、環境的に狭められた危機的状態を体験(虐待や洗脳、戦争等)するとオキシトシンのホルモンが低下し、感情的障害が残るケースが見られます。むしろ何かに「かわいさ」を感じる事は発達段階でオキシトシンの分泌が正常であった事を証明しているのかもしれません。と思われますがいかがなものでしょうか。

 

フロイトは「エロス」を「生の本能」としています。しかし晩年に「タナトス=死の本能」を指摘しています。ユングの考え方であれば「生きたい」と同じだけの「死にたい」という精神的質量(?)がディラックの海への誘惑となるのでは?なんていう不可知な考えを弄んでいます。

自殺未遂二回の経験を持つ人間の意見としては「リセット」です。

犯罪者の「やり直したい」と変わらぬ希求でした。初めから、最初から。自殺念慮だけで救急車を呼んだり警察に保護を求めたり。

動機は単純。「家に帰りたい」。それは妻が生きていて二人の息子をこよなく愛して義父と酒を飲み交わした幸福な過去への回帰です。

希死念慮は例外なく現実を否定する行為です。

 

感動は理解できたことへの喜びだと考えます。その理由は、哺乳類共通の脳の機能に由来します。

哺乳類の脳は大きく分けて二つの要素があります。

一つは大脳新皮質。これは論理思考を司ります。人で言うと言葉になる思考は概ねこの部位で行われていると考えていいかと思います。

この部位が何をしているかと言うと、論理を使って、目の前のことを理解し、次の行動のための判断をしています。哺乳類は、他の動物にはないこの部位を使って、過去の環境の良いところを見つけたり、天敵の痕跡を探したりして、知らない環境に適応し、全世界に広がることになりました。

ですが論理の脳は、多種多様な世の中の有り様の全てに対応できる訳ではありません。むしろ分からないことの方が多いのです。そこで登場するのが、旧皮質という感情を司る部位です。

論理が破綻し、次の行動の判断ができない時に、旧皮質は、論理の脳の活動を抑え、目の前のことを切り抜ける刹那的な行動を促します。例えば、原野のネズミは、鳶に睨まれて動けなくなります。これは、解決方法が見つからないで論理が行き詰まるからです。論理の脳が止まったことを感知した旧皮質が、鬱と同じ感情を発行します。そして動くことを辞めさせ、見つかる可能性を下げるよう行動を促すのです。(ちなみに何も顧みない攻撃を促すのは激怒という感情で、同じプロセスで発動します。)

脳の「論理」と「感情」の機能はこのように協調して哺乳類の生存性を上げてきました。ですが、感情の機能は、周りを顧みない緊急の機能です。そのため、哺乳類は、出来るだけ感情だけで突っ走ることのないように進化してきました。

感情の脳にも、論理判断を促す仕組みがあります。それは成功体験です。鳶に睨まれたネズミは、あるとき、鬱感情に支配されている状態、つまり恐怖を振り払って、目に付いた岩場に逃げ込みます。それで危機回避が成功すると、感情の脳はそれ以降、鳶に睨まれても論理の脳に介入することは無くなります。

この成功体験の際に脳内で行われることがあります。それは、トラウマ記憶からエピソード記憶へと問題に関わる情報を移すことです。トラウマ記憶は、苦手意識や、敵対心のもととなる情報の記憶で、感情の機能に直結し、止まる逃げる攻撃するという刹那的な行動を促すトリガーになります。それが感情を乗り越えた成功体験により、エピソード記憶になると、自分が感情に囚われていたときの体験も含めて明瞭な論理記憶として脳内に再配置されます。ここで哺乳類は大きな喜びを得るとされています。

これは人で言うと、得心ということになります。哺乳類は論理の動物なので、状況を論理で理解し、次から予め出来ることが分かるようになることが喜びなのです。また生死に関わるようなことでなくとも、人の脳は悩み事や不安、人との恋で容易く感情脳を活性化させます。動物の生存システムと、同じ過程です。だから、喧嘩した友達と仲を戻したり、お互いのことまだよくわからない恋人たちがお互い理解し合えたり、ランボーが暴れたあと上官に叱られて本音を出してきたのを見て、我々は感動するのです。そのプロセスの過程にあるのは、「自分なりの理解」です。

人は他人を理解し、自分を理解し、自然を理解し、社会を理解し、自身の楽しみを理解することを喜びとします。それは自分なりの理解で十分です。その理由は、哺乳類が論理で判断し、生き抜く動物だから、理解を希求するのです。判断に際して、「自分なりの」材料を増やしたいのです。それを人の言葉にすると、よりよく生きるということになります。

人はより良い「自分なりの」認識を得て、感動するということだと思います。