2003年に創設され、2013年Jリーグ準加盟クラブとして承認[1]、2014年にJリーグに入会した[1]。運営法人は琉球フットボールクラブ株式会社である[1]。クラブ名は沖縄本島を中心に存在した琉球王国に由来している[1]。エンブレムは、阿吽(「あ」(右)、「うん」(左))の呼吸を表す「対のシーサー」と琉球王国の「王冠」などをモチーフとしている[6]

マスコットはジンベーニョである。なお、2009年から2013年までは石垣市出身の元ボクシング世界王者の具志堅用高をモデルとした「ぐしけんくん(仮)」を用いていた。

ホームスタジアムは沖縄市のタピック県総ひやごんスタジアム、クラブ事務所は沖縄市安慶田の本社の他に那覇市奥武山町に「那覇事務所」を置く。主な練習場は島尻郡八重瀬町東風平運動公園サッカー場中頭郡中城村吉の浦公園ごさまる陸上競技場南城市南城市陸上競技場の3カ所である(詳細は#スタジアム・練習場他を参照)[1]

歴史[編集]

創設からJFL昇格まで[編集]

2003年2月、沖縄初のJリーグ参入を目指すサッカークラブとして創設[6]沖縄かりゆしFC九州リーグ)を一斉退団した選手らにより結成された[7][8]。初代監督に宜野湾市出身の新里裕之が選手兼任で就任。沖縄県社会人サッカーリーグ3部に優勝。同年6月の沖縄県社会人サッカー選手権優勝がクラブにとって初タイトルとなった[7]

2004年、沖縄県サッカー協会社会人連盟の推薦により県リーグ1部へ飛び級での参入が認められた[1][7]。監督に元日本代表与那城ジョージが就任、県リーグ1部で優勝を果たす。九州各県リーグ決勝大会は決勝で有明SC(現:V・ファーレン長崎)を破って優勝した。さらに天皇杯に初めて出場し、初勝利も挙げた。

2005年、九州サッカーリーグは2位。全国社会人サッカー選手権大会は2回戦で敗れたが、第29回全国地域リーグ決勝大会で優勝。その後、日本フットボールリーグ(JFL)入会が承認され、沖縄県のサッカークラブとして初の全国リーグ参戦となった。

2006年 - 2013年(JFL)[編集]

2006年
7月、元U-23日本代表石川康ゼネラルマネージャーに就任した。リーグ戦は14位の成績であったが、「ベストサポーター賞」を受賞した[6]。シーズン終了後に与那城が監督を退任した。
2007年
Honda FC元監督の吉澤英生が監督に就任した一方で、6月に石川がGMを退任。リーグ戦は降格圏内の17位で終えたが、レギュレーション変更によりJFLに残留した(詳細は第9回日本フットボールリーグ#レギュレーション変更を参照)。シーズン終了後に吉澤が監督を退任した。
2008年

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日本代表元監督のフィリップ・トルシエが総監督、ブルキナファソ代表元監督のジャン=ポール・ラビエ英語版)が監督に就任。元日本代表の山下芳輝が加入した。1月にJリーグ準加盟申請を行ったが、同2月19日に開かれた社団法人日本プロサッカーリーグの理事会において、運営体制の未確立、スタジアム等設備条件の不備を理由に認められなかった[7]。リーグ戦は入れ替え戦圏内の16位で終えたが、昨年同様レギュレーション変更によりJFLに残留した(詳細は第10回日本フットボールリーグ#レギュレーション変更を参照)。シーズン終了後にラビエが監督を退任した。
2009年
1月、初代監督でコーチの新里裕之が監督に就任。リーグ戦は、入れ替え戦圏内の16位で終えたが、レギュレーション変更によりJFLに残留した(詳細は第11回日本フットボールリーグ#レギュレーション変更を参照)。12月、株式会社琉球スポーツキングダムから榊原信行率いる株式会社沖縄ドリームファクトリーへ経営権が譲渡された。
2010年
新里体制2年目。リーグ戦は10位。天皇杯は2回戦で千葉に敗北。
2011年
新里体制3年目。山下など6人が退団した一方、元日本代表の我那覇和樹など6人が入団した。2月に申請していたJリーグ準加盟の審議が行われたが、継続審議扱いとなった[9]。リーグ戦は、開幕から11試合の成績が全チーム中トップとなり、天皇杯のJFLシード権を獲得した。最終成績は9位。天皇杯は2回戦(初戦)で愛媛に敗北。リーグ戦は9位の成績。シーズン終了後に新里が監督を退任した。
2012年
監督に鳥取元監督の松田岳夫が就任。リーグ戦は5月20日のSAGAWA SHIGA FC戦の勝利以降ホームで勝てなくなり、10月27日のホンダロックSC戦の勝利まで7試合ホーム未勝利となった。順位は前年と同じく9位。松田がシーズン終了後に監督を退任した。
2013年
監督にAC長野パルセイロ元監督の薩川了洋が就任した。9月、株式会社沖縄ドリームファクトリーから琉球フットボールクラブ株式会社へクラブの運営が移管された[6]。9月17日にJリーグ準加盟クラブとして承認。11月19日に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の理事会でJリーグへの入会が承認され、2014年からのJ3リーグ参加が決定、沖縄初のJリーグ参入クラブが誕生した。リーグ戦の順位は11位。

2014年 - 2018年(J3)[編集]

2014年
クラブスローガン :「J3元年 誰も見たことのない未来へ 今までじゃない 今からだ
薩川体制2年目。我那覇和樹讃岐へ完全移籍するなど、半数以上の22人が契約満了により退団。年間成績は9位。
2015年
クラブスローガン :「島魂」(とうこん)
薩川体制3年目。河端和哉ら10人が契約満了により退団した。新たに14人の選手が新加入したが、年間成績は昨年同様9位だった。シーズン途中には、國學院久我山高校サッカーの監督を務めていた李済華がGMに就任。シーズン終了後に監督の薩川、コーチの小湊隆延が退任した。なお、10月のJリーグ理事会で、J3クラブライセンスがクラブの財務面の状況をより精査する必要がある、との理由で継続審議となった。その後、11月17日開催の理事会で2016年度のJ3ライセンスが交付された[10]
2016年
クラブスローガン :「全力琉球
アカデミーダイレクター兼U-15監督を務めていた金鍾成が監督に就任。中山悟志が引退するなど前年所属選手の3分の2以上にあたる19人が退団した。一方で藤枝から昨年の正GK朴一圭東北1部・FCガンジュ岩手から濱田克大が完全移籍で加入。外国籍選手としてフアンパブロレオナルドを獲得、高校生2人、大学生6人の新卒選手を獲得した。年間成績は12勝8分10敗の8位でJ3加入後初の勝ち越し。
2017年
クラブスローガン :「琉球流蹴球
金鍾成体制2年目。田中恵太水戸へ移籍)など9人が退団。一方でカン・ジュガン関東1部・VONDS市原FCから)、玉川由(関東2部・エスペランサSCから)、崔炳吉キム・ヒョンボムが完全移籍で加入。その他、名倉巧を含めた大学生5人が入団。平均年齢22.6歳になった。キャプテンは、在籍4年目で最年長のMF藤澤典隆が務めた。また、7月17日に水戸から田中恵太が期限付き移籍で加入(半年ぶりの復帰)、同月18日には北澤豪がクラブアンバサダーに就任[11]。8月9日にスペインでのプレー経験を持つ中川風希が加入した。
運営会社の代表に、筆頭株主で、前年までのオフィシャルサプライヤーだった「mitre」の日本代理店・イミオの代表取締役である倉林啓士郎が就任した。また、オフィシャルサプライヤーはこの年からイミオのオリジナルブランドである「sfida」に変更された。
開幕戦は栃木と引き分け。第7節以降は、引き分けを挟み、第18節の長野戦で敗れるまで、10試合無敗を記録。前半の17試合は6勝7分4敗の8位。後半戦はなかなか連勝が続かなかったが、最終成績は13勝11分8敗、勝ち点は50。過去最高の6位で終えた[12]。天皇杯は1回戦でJFLFC今治にPK戦で敗れた。
9月26日に初めてJ2ライセンスが交付された[13]
ホーム戦での勝率は38%(アウェーは44%)。引き分けが11試合、2連勝は3度だけで3連勝以上がなかった。観客動員では、フロント、選手やスタッフを含めた地道な集客活動もあり、ホーム戦の平均入場者数は2,508人で昨季より約千人増加[14]。スポンサーにおいても、2016年度の56社から130社(2017年8月末時点)に増加した[15][16]
2018年
クラブスローガン :「琉球昇竜
金鍾成体制3年目。藤澤典隆鹿児島)、田辺圭佑熊本)、才藤龍治富山)、前田央樹北九州)といった、これまでチームの軸として活躍した主力選手らが去った一方で、新卒ルーキー4名の他、藤枝から前シーズン13得点を挙げたFW枝本雄一郎U-23北朝鮮代表MF金成純YS横浜からMF小松駿太大宮から元日本代表のFW播戸竜二、ノルウェーからFWカルボン・ファーデルが加入した。
1月18日には早稲田ユナイテッドとの新たな包括的業務提携の締結[17]、2月6日にはFC琉球高等学院の4月開校、4月24日にはプロ卓球リーグTリーグに参加する琉球アスティーダとの包括協定締結[18]、同月27日には同じく沖縄県を拠点とする、プロビーチサッカークラブソーマプライアとの包括協定締結が発表された[19]。7月22日には、eスポーツチーム「FC琉球」の発足が発表された[20]
序盤は第5節から4戦勝ち無し(1分3敗)を喫するが、第9節でG大阪U-23で5試合ぶりの白星を挙げると、そこから10試合無敗(7勝3分)となり、第17節に首位に浮上。第19節終了時点で10勝5分3敗の勝点35、首位をキープして夏場の1ヶ月の中断期間へ入ることになった[21]
中断開けの後半戦では、第23節G大阪U-23に0-2で敗れ、14試合ぶりの黒星を喫したものの[22]、続く鹿児島沼津との上位対決で、いずれも安定した試合運びで勝利[23][24]11月3日、第30節群馬戦を4-2で勝利し、4節・3試合を残してクラブ創設15年目、J3参入5年目にして初のJ3優勝・J2昇格を果たした[25]。4節・3試合残しての優勝・昇格決定はJ3リーグ最速(当時[注 1])となった[27]。ホームゲーム最終戦となる第33節相模原戦に5-1で勝利し、ホームゲーム7連勝、かつJ3リーグでは初、全カテゴリー通算でも2006年J1浦和が達成して以来2例目となるホームゲーム年間無敗(12勝4分)でシーズンを終えた[28]。シーズン終了後、金鍾成が監督を退任した。天皇杯は1回戦でFC今治にPK戦で敗れた。

2019年 - 2022年(J2)[編集]

2019年
クラブスローガン :「琉球襲来[29]
YS横浜監督の樋口靖洋が監督に就任。朴一圭横浜FM)、富樫佑太岐阜)、枝本雄一郎鹿児島)、瀧澤修平水戸)、朴利基高知ユナイテッドSC)が移籍、屋宮大地(引退)、播戸竜二などが退団した。
一方、田中恵太(水戸・レンタル移籍含め3度目の在籍)、ダニー・カルバハル(水戸)、福井諒司(水戸)、岡﨑亮平湘南)、新井純平横浜FC)、西河翔吾栃木)、鈴木孝司町田)、風間宏希群馬)などJ1またはJ2在籍経験のある選手、上里一将熊本)、上原慎也愛媛)の沖縄出身選手などが移籍加入したほか、2017年に特別指定選手として在籍・出場経験のある儀保幸英など5人が大学・高校から新加入した[30]。更に琉球U-18から4選手が昇格した。
2019年4月26日に行われた第6回定時株主総会ならびに取締役会で、「J1ライセンス取得」そして「J1昇格」の目標に向けて更なる経営力強化に向け、二人代表制を採用。6月1日付で代表取締役社長の倉林が取締役会長となり、取締役(事業統括)の三上が代表取締役社長に、同じく取締役(強化部統括)の廣﨑が代表取締役副社長兼スポーツダイレクターに就任することになった[31]
2019年6月27日、エアトリ(旧商号:エボラブルアジア)より投資を受け、資本業務提携を発表[5]
シーズン開幕4連勝を達成し、さらに前シーズンから続いていた「ホーム試合連続負け無し」をJリーグ記録更新まで継続するなど好調が続いたが、一方でシーズン開幕直後に中川風希(横浜FM)、シーズン中盤の移籍期間に鈴木孝司(C大阪)、和田凌(鹿児島)、増谷幸祐岡山、期限付き移籍)が移籍し、中盤戦では連敗が続く時期もあった。その後はシーズン途中で獲得した小野伸二札幌)、鳥養祐矢山口)、風間宏矢(岐阜、期限付き移籍)、山田寛人(C大阪、育成型期限付き移籍)などがフィットし成績が向上、J2初年度を13勝10分19敗の14位で終えた。
2020年
クラブスローガン :「REVIVE -琉球再興!-[32]
樋口体制2年目。開幕前には、田口潤人タヴァレス李栄直沼田圭悟知念哲矢鈴木大誠山口和樹池田廉イ・チソン茂木駿佑阿部拓馬人見拓哉が加入[32]
シーズンでは、開幕以降9試合は勝てない状況が続いた。シーズン後半では、持ち前の攻撃力が発揮し、守備を持ち直しながら徐々に調子を上げていった。中でも攻撃力は、リーグ6位の58得点であり、そのうちの39得点は後半の時間帯によるもので、うち18点が残り15分以降のゴールであった。このほか、失点数は61失点で、昨季のリーグ最下位の80点から改善した。順位は昨季より下げ、14勝8分20敗の16位で終えた[33][34][35]
シーズン途中、小川淳史が代表取締役社長に新たに就任[36]。このほか、市丸瑞希G大阪から期限付き移籍で加入した[37]。シーズン終了後には、小野伸二の退団[38]小泉佳穂浦和への完全移籍が発表された[39]
2021年
クラブスローガン :「FORWARD -琉球進撃-[40]
樋口体制3年目。開幕前には、上原牧人山下令雄村瀬悠介清武功暉澤田将清水慎太郎赤嶺真吾が加入[41]。また、中川風希が1年半ぶりに京都から期限付き移籍で加入、ハモン鳥取から復帰[41]G大阪から期限付き移籍で加入していた市丸瑞希が、クラブに完全移籍で加入した[42]。このほか、シティチョーク・パソチョンブリーFCから期限付き移籍で加入した[43]
シーズン前半戦では、ボール保持を高めながら攻撃のチャンスを数多くつくる戦術を軸に[44]、暫定首位に立つこともあるなど優勝争いに絡んでいた[45][46]。しかし、シーズン後半戦に入ると徐々に失速し、第28節から第34節までの7試合を1分6敗の成績で順位を8位まで落としたことから、10月20日に樋口靖洋との契約を解除。代わってヘッドコーチを務めていた喜名哲裕が監督に就任し、リーグ戦残り8試合の指揮を執ることになった[47]。最終的に18勝11分13敗で9位となったものの、J2としての最上位でシーズンを終えた[44]
2022年
クラブスローガン「ONE RYUKYU 〜琉球一心〜[48]
喜名体制2年目。開幕前には、福村貴幸中川創大森理生中野克哉大本祐槻武沢一翔野田隆之介草野侑己が加入[49]
昨シーズン行われていた戦術から変更を図り、「即時奪回」、「速攻」、「サイド攻撃」を掲げてシーズンを迎えた[44]。第4節アウェー山口戦でシーズン初勝利を挙げたものの、続く第5節から10試合連続勝利なしで、第6節にはJ3降格圏の21位、第10節には最下位に転落。第16節にホーム初勝利を挙げると同時にシーズン初の連勝を果たし、第17節ホーム甲府戦には引き分けにより一旦20位浮上した。しかし、次節の敗戦で再び21位に転落。その後、4戦勝利なしで再び最下位転落した第20節終了後、6月8日に喜名を監督から解任し[44]、ヘッドコーチの倉貫一毅が監督として暫定的に指揮を執ることとなった[44][50]。6月12日、スペイン人でバレンシアCF前ヘッドコーチのナチョ・フェルナンデスの新監督就任が発表された[51]
シーズン途中、社長・取締役を務めていた小川淳史が2年間の任期満了で退任し、倉林啓士郎が代表取締役会長と兼任する形で社長に復帰。新たに執行役員制度を導入した[52]。また8月6日には、島尻郡八重瀬町に練習拠点となる「八重瀬町スポーツ観光交流施設」が完成[53]。このほか、ケルヴィン[54]、アレックス・バレラ[55]、サダム・スレイ[56]加藤恒平が加入した[57]
フェルナンデスの監督就任後、失点のリスクを減らすため、クロスボールによる攻撃、ロングボールを放り込む戦術を徹底した[44]。就任直後2試合は連敗したものの、続く5試合は2勝3分で乗り切った。しかし、阿部拓馬の負傷を機に得点力が落ち、勝利を積み重ねられないまま、降格圏の21位以下から一度も抜け出せない状況が続いた。そして10月16日、J2第41節のアウェイ千葉戦で逆転負けを喫し、最終節を残して降格圏内となるリーグ戦21位以下が確定した[44]。同月19日、フェルナンデスの監督のシーズン一杯での退任を発表[58]。最終節は勝利し、21位でシーズンを終了。J2リーグシーズン終了後の10月25日、まだ4節を残すJ3リーグにおいて翌年J2昇格の可能性を残す全チームにJ1もしくはJ2ライセンスが交付されることが決定し[59]、J2在籍4シーズンでJ3に降格することが確定した[60]。シーズン全体を通し、1点差で敗れた試合数は14にのぼり、引き分けはリーグ5位の13試合。互角の試合展開に持ち込みながら、カウンターからの失点などで勝ちきれなかったことが響いた[44]

2023年 - (J3)[編集]

2023年
クラブスローガン「ONE OKINAWA No.1へ、J1へ。沖縄に勝利と成長を。[61]
ヘッドコーチの倉貫一毅が監督に昇格[62]。開幕前には、森侑里牟田雄祐白井陽斗岩本翔荒木遼太平松昇高安孝幸森田凜ジョン・ジワン山内舟征津覇実樹チョ・ウンス藤原志龍鍵山慶司が加入[63]
第1節八戸戦、第2節岩手戦のホーム2連戦を連勝するも、二度の3連敗もあり第10節終了時点で17位と低迷。5月15日、倉貫を監督から解任した[64]。今シーズンからスポーツダイレクター補佐としてチームに復帰していた喜名哲裕が暫定監督を務め[64]、6月14日には正式に監督に就任した[65]。その後、連勝、連敗を繰り返し、前半戦を14位で折り返す。
夏の移籍期間には寺阪尚悟岡澤昂星が加入。
後半戦もチーム状態は上向かず、第20節から第26節の7試合で1勝1分5敗と苦境が続き、順位も18位と低迷する中、9月15日には喜名が監督を辞任[66]。新監督として、6月まで鳥取の監督を務めた金鍾成が、2018年以来6年ぶりに就任[67]。最終順位は17位。