ヴィレッジ・ピープル(英語: Village People)は、アメリカ合衆国の男性6人組のグループ。1977年にヴィクター・ウィリス英語版)によって結成され、「Y.M.C.A.」などの大ヒット作を数々と生み出した。またペット・ショップ・ボーイズがカバーした「ゴー・ウエスト」、ピンク・レディー渋谷哲平らがカバーした「イン・ザ・ネイヴィー」(ピンク・レディー版のタイトルは「ピンク・タイフーン (In The Navy)」で、澁谷哲平版のそれは「ヤング・セーラーマン」)、「マッチョマン」などのヒット曲が有名である。

1985年に一旦解散するも1987年に再結成され、幾度かのメンバーチェンジを行いながらも、アメリカ国内のみならず世界各国でライブ活動を続けている。

来歴[編集]

1977年にニューヨークで結成。フランス人音楽プロデューサーのジャック・モラリ英語版)が仕掛け人。モラリが、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるゲイ・ディスコを訪れた際に、インディアンの衣装を身に着けたダンサー、フェリペ・ローズを発見。また、その周辺ではカウボーイや建設作業員のコスプレをした男達が踊っており、これを見たモラリが「ゲイの象徴的グループを作ろう」と思いついたのが始まりである[2]。グループ名は前述の「グリニッジ・ヴィレッジ」に由来する。

グループ結成にあたり、モラリはまずフェリペ・ローズをスカウト。そして、ミュージカル俳優やシンガーとして既に活躍していたヴィクター・ウィリスをリード・ボーカルに抜擢し、その友人でシンガーのアレックス・ブレイリーもバック・ボーカルとして加入させた。その後、新聞に「ゲイのシンガーで、マッチョ・ルックの人求む」という広告を打ち出してオーディションを行い[2]、その結果、デイヴィッド・ホードー、ランディ・ジョーンズ、グレン・ヒューズ(イギリスのミュージシャン、グレン・ヒューズとは別人)の3人がメンバー入りした。

初期のヴィレッジ・ピープルは、ゲイ・ディスコでの営業等を中心に活動を行っていたが、ゲイ受けを狙いすぎたヴィジュアルや音楽性が裏目に出てしまい、ターゲットとしていた肝心のゲイ達からは「ゲイをパロディ化している」と受け止められ、あまり良い反応は得られなかったという[2]。そこで、ゲイに限らず一般の人々にも受け入れられるように、ポップ路線へと変更したところ[2]、それが功を奏し世界的スターとして大成功を収める結果となった。 やがて彼らは、1970年代後半にディスコソングを中心に世界的ヒット曲を次々生み出した。ゲイ・マーケットをターゲットにして売り出され、メンバーそれぞれが、ゲイ受けを狙ったアメリカの職業等のコスプレをしている。ポップス史上、ゲイ・イメージを表面に出して音楽活動を行った最初のグループといわれ、アメリカにおけるゲイの地位向上に貢献したとの評価もある。長年ゲイだと思われてきた2代目リード・ボーカルのレイ・シンプソンは一般女性と結婚し、娘も誕生している。なお、レコードジャケットに写っている写真と、実際に歌っているスタジオ・ミュージシャンのヴォーカリストとは別人であることが、よく知られている。

1978年にグループ最大のヒット曲「Y.M.C.A.」が発売され、79年に大ヒットした[3]。同曲は、西城秀樹が1979年に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーし大ヒットしたことにより、日本でも楽曲とともにグループ名も一躍有名になった。2006年にはレイザーラモンHGもカバーしている。ピンク・レディーはカバー曲の中で、「やっちゃいな、やっちゃいな、やりたくなったら、やっちゃいな」と歌った。その後、80年代末になってからは、元メンバーのマイルス・ジェイが、アイランド・レコードに所属しソウル・チャートで小ヒットを放っている[4]

2008年撮影

2008年9月12日、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星形プレートにグループ名が刻まれた[5]

2013年にジム・ニューマンがカウボーイ役として加入し[6]、同年10月にビル・ホワイトフィールドが土工役として加入[7]

2017年、著作権使用料や作詞作曲クレジットに関する司法判断が確定し、ビクター・ウィリスがヴィレッジ・ピープルの名前とキャラクターを使用するライセンスを取得[8][9]。ビクター・ウィリスは、メンバーを一新してメインボーカルとして35年ぶりに復帰した[7]

2018年11月に33年ぶりとなるオリジナル・アルバム『A Village People Christmas』を発売[10]

2019年8月3日に共同作業者であるアンリ・ベロロが死去[11][10]