宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年明治4年、同治10年)、琉球王国首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説もあり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。

宮古島島民遭難事件
那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」
場所台湾南部、当時の地名双渓口
日付明治4年11月8日(新暦1871年12月19日[1]
標的年貢を納めて台風に遭い台湾山中を彷徨える琉球人
兵器蕃刀
死亡者54人
負傷者虎口を脱せし者12名
犯人台湾パイワン族
動機諸説あり(後述)
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現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する[2]

日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。