「番外編」 異端者たちの中世ヨーロッパを読んで(part4)

 

subjectの訳語 であるとすれば,異端の罹患者,つまり,異端に染まった者と言うほど の意味であり,よりこなれた表現であればと惜しまれた。302頁のキリス ト教的主体についても同じである。意味するところは信仰を内面化した キリスト教徒であろう。トポスという言葉についても説明がないままつ かわれ本書の後半でようやく,場といいかえられているが,むしろ言語 空間,特に信仰上の熱い思いが交錯する磁場のようなものとして用いら れているようであった。

 

一般向け図書の体裁をとる本書だけに,より平 易につづられていればと惜しまれる。 わかりにくさと類似する問題として,海外文献の紹介のしかたに若干 の問題があるようにかんじた。ムアを紹介した箇所で小田内氏が素朴に エリートのイメージとした箇所は,原書ではエリートによるイメージ戦 略とでもいうべき作為的誹謗が問題になっており,エリートの演じた役 回りとそれを必然とした社会構造の議論におおきな隔たりがでてしまっ ている。 またより根源的な問題として,異端の定義の問題をあげておく。冒頭 部分の異端の定義とは別に,本論中には,中世の人々が異端となること を選んだとする箇所がある。こうした物言いのあり方は,渡邊昌美氏が ずっと以前にいいきっている,正統が異端としたものが異端となるとい うあたりまえすぎるけれど普遍性のある定義に比較して優位性があると, 130 藤女子大学キリスト教文化研究所紀要 この時代についていえるのかは大きな疑問であろう。

 

たとえば,あのサ ザーンにも『西欧中世の社会と教会』のなかで,救いにいたる別の道が あるのではと考えた人々がいた云々の記述はある。しかし,そうした見 方をいたずらに敷衍することが妥当なのか。ルターやヘンリー8世のし たことであれば,ローマと異なる道をえらんだということで問題はない のだろうが,宗教改革以前と以後では,異端をめぐる状況はあまりにも 隔たっていると思われるのである。そうした視点を涵養するという意味 でも,宗教改革期,ルター派とカトリック教会は相互に相互を異端との のしりあっていたという重い事実には触れてほしかった。 いろいろ述べてきたが,論じかた次第では,異端研究には,歴史学の 新しい可能性があるように思う。教理に比重をおきがちな小田内氏の叙 述からはみえてこない,異端をとりあげることで当該社会がどのように 見えてくるかという本書であまりとりあげられていない問題については 私自身の今後の課題としたい。