「番外編」 異端者たちの中世ヨーロッパを読んで(part2)

 

12世紀後半以降身体の解釈をめぐる葛藤のなか 上條:書評 125 から,(カトリック教会における)キリストの身体に対する新たな関心 と,(カタリ派における)二元論的解決という両極化が生じたが,カタリ 派もカトリック教会も,実際には,産み育て,欲望し,腐敗する身体と いう同一の身体イメージの地平にたっていた。すなわち「中世人の世界 観ではあらゆる変化は衰退で」,「アダムとエバの原罪にはじまり,キリ ストの受肉から肉体の復活まで,救済とは罪と死に対する勝利にほかな らず」「中世の身体観の奥深くには,自然の変化する過程に対する根深い 不安が存在していた。」「滅びるべき身体と共に『人間』も無に帰すのか と」。(第2章第2節)肉体という牢獄から解放された魂が天国に戻って いくという救済観をもっていたカタリ派が,滅びるべき身体と共に『人 間』も無に帰すのかと,恐れていたのか若干疑問であるが,ともあれ, このような語りの延長線上で,12世紀から 13世紀にかけての聖体信心 の発展はカタリ派二元論に対抗するものとして位置づけられる。

 

また, カタリ派に対するアルビジョワ十字軍は,武力制圧によらなければヨー ロッパ全土が汚染されるという恐怖感によっていたと説明され,しかも その恐怖は実体的な脅威に由来するものではなく迫害をうんだエリート が抱いたイメージ(ママ)に由来するものであったことが R.I.ムアの研 究を典拠として主張され,カタリ派が対立教会を組織していたとの旧来 の説は否定される。 次なる第3章が扱うのはワルド派である。リヨンの富裕な市民ヴァル デスによって 12世紀に開かれたワルド派は,吟遊詩人が語り聞かせる聖 アレクシスの物語に感銘をうけたヴァルデスが,「もし完全になりたいの なら,行って持ち物を売り払い,貧しい人に施しなさい」という福音書 の言葉を文字どおり実践し,清貧の生活にはいったところからはじまる。 そこで彼がはじめたのは,聖書を俗語訳で読んで人々に説教を行うこと であった。この一般信徒による説教という未曽有の事態は同時代の聖職 者の露骨な反感をまねいた。

 

教皇アレクサンデル3世のはからいにより, ヴァルデスの一味は大司教の事実上の認可のもとに当面は説教活動を続 けることができたものの,教皇の死去と大司教の交代ののちはリヨンの 町から追放され 1184年には異端宣告を受けることになるのである。 さて,ヴァルデスらの説教活動が問題視されたのは,キリスト教が神 の言葉が受肉したキリストへの信仰であったということもさることなが 126 藤女子大学キリスト教文化研究所紀要 ら,グレゴリウス改革によって聖職者の司牧的役割が強調されるように なって説教権の独占が「アクチュアルな問題」になっていたからであっ た。ただしワルド派をめぐる問題には,聖職者とそれに従う一般信徒と いう二項対立的な図式に還元できない複雑な様相もあった。ヴァルデス らは異端宣告をうけたのちも一般住民に受け入れられて説教活動を続け ていたし,一派には明らかに少なからぬ聖職者や学識のある者が加わっ ていたのである。この点に注意をうながし,小田内は,ヴァルデスの問 題をリヨンのローカルな教会の枠組みの中で解釈しなおそうとした最近 の研究を紹介する。

 

それによれば,リヨンでも教会改革がきざしていた が,教会財産を私有化し蓄財に熱心な「貴族」「有力者」「大物」から改 革に強い反対があったのに対して,「より卑しき者たち」「より小さき者 たち」は利得心をもたず,リヨン教会に奉仕していたという。この後者 こそがヴァルデスのグループをさしたのではないかというのが最近の研 究なのである。(第3章第2節) グレゴリウス改革後の教会は「使徒的生活」への呼びかけを共通のス ローガンとする改革精神に呼応しつつ新しい社会にふさわしい「新しい 言葉」を模索しておりワルド派はその試金石となった。初期には吠えな い犬と化していた聖職者に対して荒野の声としての価値を認められてい たワルド派に開かれていた言説空間は,しかし間もなく閉ざされ,最終 的にワルド派は不服従の異端として周縁で生きることを余儀無くさせら れることになる。 第4章は,フランチェスコ会聖霊派とベガンを扱う。問題となるのは フランチェスコ会の清貧論争である。

 

ヴァルデスの回心から約1世紀後, 同じように私財を放棄して貧者に与え福音説教をはじめたフランチェス コの仲間たちは,教皇の認可を得て,汎ヨーロッパ的な修道会として成 長をとげた。しかし,フランチェスコがめざした文字通りの清貧を大き な組織となった修道会が維持するのはむずかしく,まもなくフランチェ スコ会内部ではいわゆる清貧論争が起きることになる。「富と権力」をめ ぐる矛盾・葛藤をトポスとした異端の発生である。 すでにフランチェスコの晩年,教皇グレゴリウス9世とインノケン ティウス4世は,財の「使用」と「所有」という概念を巧妙につかい, 財の所有は放棄されなければならないが,使用は認められるという解釈 上條:書評 127 をうみだした。この解釈によってフランチェスコ会の無所有の原則は, 形式的には守られたし,ボナヴェントゥーラの時代までは使用もミニマ ムであるべしという節度ある解釈が主流をしめていた。

 

しかし,やがて 無所有が建前となり托鉢修道士たちが豪奢な服と食事,壮麗な教会を享 受する姿があたりまえのようになると,会の内部では清貧の解釈の緩和 の道を探る指導部と,フランチェスコの理想に忠実であろうとする少数 派の間に亀裂がうまれるようになる。