「良い形で本に出会えれば、人は読む」という暗黙の前提(Beloved by Toni Morrison) | きのう、なに読んだ?

トニ・モリスンの代表作 Beloved を読んだ。

 

私の感想をぽつぽつと:
◉自由と尊厳を許されなかった奴隷だからこそ、いったん獲得した自由と尊厳は命がけで守る。自分が産んだ子どももいつのまにか取り上げられて売られてしまう状況から逃れたからこそ、自分は子どもを何としても守る。
◉飢餓を経験した人が、その後食べ物に不自由しなくなったとき、食べ物をすごく大切にし続けるケースもあれば、極端な飽食に走るケースもある。それに似て、自由、尊厳、家族を許されなかった人が、その後それらを手に入れた時、落ち着いて大切に守ろうとするケースもあれば、極端な行動に走ってしまうケースもある。
◉過去の痛みを象徴する存在(母に殺された幼子)が蘇り、家族を翻弄する。それをきっかけに、一人ひとりが、蓋をしてきた自分の過去の痛みと向き合って行動を起こしはじめた。そうしたら、蘇ったものは、消えた。みんな前を向いて生き始め、痛みは受け継がずに済むこととなった。 It’s not a story to pass on.
◉逆にいえば、私たちも自分の過去の痛みに蓋をし向き合わないままでいると、周りや次世代に伝播し、彼らが前を向いて生きていくことを阻害するのかもしれない。
◉ “Ella didn’t like the idea of past errors taking possession of the present...the past was something to leave behind. And if it didn’t stay behind, well, you might have to stomp it out.” (エラは、過去の過ちが現在を支配するという考えが気に入らなかった。過去は置いて行くものだ。もし過去が追いかけて来るなら、まあ、追い出さないといけないこともある。)

感想めいたことを散漫に書いたけれど、いろんな角度から様々な感情と考察を呼び起こす本だと思う。1回通読したので、次は落ち着いて読めそう。そうしたら、今回は読み飛ばしてしまったディテールに気づけるかもしれない。

それにしても、本格的な文学作品を読むのは何年ぶりだろう。格闘した感がある。いまは気持ちも時間もゆとりがあるから取り組めたけど、もしまた仕事かなにかに全力投球したら、もう「次」はしばらく来ないかもしれない。

さて、トニ・モリスンは1993年にノーベル文学賞を受賞している。Beloved は代表作だ。

 

いろいろツッコミどころがあるが、いちばん気になったのは、「良い形で本に出会えれば、人は本を読むようになる」ことが暗黙の前提になっていることだ。本1冊を読み通して理解するなんて、字が読めれば誰でもできる、と。でも、本当にそうだろうか。「あの本/記事は、私には難しい」とギブアップしたこと、私には何度もある。字は読めるのに。

もしかすると、本を読むことは、音楽を演奏することやお芝居を演じることに近いのかもしれない。音楽は作曲/演奏/鑑賞、お芝居は執筆/演出と演技/観劇、の3ステップある。読書はたいてい一人でするものなので気付きにくいが、実は、演奏や演技に相当するステップがある。自分一人の中で、演奏と鑑賞の二役を同時にこなしているイメージだ。

 

これはノンフィクションに関する記述だったけれど、フィクションでも同じような構造がある。私が Beloved の感想で書いたことは、個人的な経験とそこから学んだこと、またこれまで見てきた本や映画などの作品から感じたことに紐付いている。「これで思い出したけど…」「登場人物のこの行動が象徴するのは…」「ここで文体が変わって感覚が刺激されたのは、あれに似てる…」など。

実は読書は、音楽で言えば音楽鑑賞よりも楽器演奏に、お芝居で言えば演劇鑑賞よりも演技や演出に近い行為ではないか。

本を1冊読み通し何かを感じる方法を、私はほぼ独学で身につけた。もちろん学校の授業などで学んだことを大いに活用している。でも「本を1冊読み、味わう」ことを具体的に学んだことはない。それに近い教育は、アメリカのど田舎の高校で1年間だけ、経験した。本まるごと1冊を教材とし、授業は毎日あって、ちょっとずつ読み進めては宿題のプリントと授業中のディスカッションで理解を深めた。

 

私が本を読み味わえるようになったのは「たまたま身近に楽器があって、弾くようになった」「映画が好きで真似しているうちに演技ができるようになった」のと同じくらい、幸運と偶然の産物なのではないだろうか。私はたまたま「独学」で本を読めるようになった。独学ではできない人でも、適切なレッスンがあればできるようになる、かもしれない。読書ってそういう性質のものなのかも。

教育界、出版界などから「日本人は本を読まなくなった」という嘆きと「もっと読んでほしい」という願いが発信されるのをきく。それには、本に出会う機会を増やすことも大事だけれど、それだけでは足りないんじゃないか。もしかしたら、楽器メーカーが音楽教室を運営しているように、出版社が「読書教室」を運営するくらいのことが、あっていいのかもしれない。