沖縄、受難つづく島の現実

今日5月15日は沖縄の本土復帰50年の節目の日である。これだけ、テレビや新聞・雑誌で取り上げられても、いま、沖縄の本質的なことはどれぐらい伝わっているのだろう。私が初めて沖縄を訪れたのは1983年。岸本マチ子さんの詩集『コザ中の町ブル-ス』句集『残波岬』を読み、ただとにかく、沖縄に行ってみたくなったからだ。

 はじめての沖縄はほぼ40年前のことだ。一人でぶらりとカメラだけをもって。残波岬はいわば西の果てみたいなところ。その後、ロイヤルホテルが建設され、そのいかにも果ての岬らしい雰囲気は失われてしまったが、当時は、宿泊した首里のホテルから行くのに、公共交通機関の手段はなく、タクシーを頼んだ。一日観光という定額コースがあったのだ。一人旅ですか。カメラとノートだけ持っているわたしに運転手は観光パンフを渡し、どこに行きたいですかと聞く。

 観光地は通り過ぎるだけでいいんです。

 まず残波岬へというと、運転手は怪訝な顔をする。そこは観光地ではないですよ。はい。わかっています。途中、コザの町を通ってもらえますか。
かくして、ソウルから58号線を西へ。基地の存在は衝撃的だった。体が震えた。コザは、米軍基地近くの町で、夜の町がひしめき合っている。昼間はがらんとしている。福岡でいえば、中洲みたいなところ。でも看板はほとんど英語。
 
 残波岬は初めて見た荒々しい崖だ。波しぶきが白く砕け、サンゴ礁が見える。もし飛んだら確実に命をなくしそうな。見ていていつまでも飽きない。太陽に灼かれて空も海も碧い。

 その後、ひめゆりの塔まで連れていかれたが、どうしても観光する気にはなれなかった。観光客がピースサインをしながら写真を撮っているのを見ると、無性に腹が立ってくる。案内する人も笑顔だが、その笑顔の裏に隠された思いを想像する。観光対象なんかではないだろうと。それはただ、自分たちの生活のためなのだ。沖縄は今も昔も観光県だ。

それから何回も沖縄に行ったがそのたびに、基地も変わらないし、相変わらず観光客を見ると腹が立つ。やるせなさと苛立ちを抱えて日々を過ごすうちに、沖縄復帰50年の声が聞こえ始めた。

 そんなとき、思いがけず、沖縄の本を作ることになった。
 『ある新聞記者がみた沖縄50年の現実 沖縄「格差・差別」を追う』
 著者の羽原清雅さんは長年の社会部記者だ。沖縄に通い続けてたくさんの資料を入手している。この本で最も衝撃的だったのは「沖縄の受難」が明治維新とともに、つまり、150年も前から始まっていたことだ。この50年の米軍支配の歴史にばかりに思いが行くが、そんな生半可なことではない。沖縄の人々の怒りは。実に150年に及ぶ軍事体制がいまも変わらず沖縄を苦しめていることだ。わたしたちはもっと知らなければ。

 羽原さんは書く。
 民衆に支持されない、いかなる権力もいつかは破綻する。

 突然の申し出にもかかわらず、池澤夏樹さんが無理をきいてくださった。帯文。

 琉球処分に始まる沖縄の受難を細密かつ立体的に記述する名著
 近代史を書くには歴史家の目とジャーナリストの筆が要る。この二つを兼ね供えた筆者は文献からファクトを選び出し、配列し、文章化する。それがそのままこの人の思想の表明である。読んでいて「あわれ沖縄」の感が強まる。  

 ―池澤夏樹(作家)

 この言葉が、すべてを言い表してといった、関連書籍の本も、あるので、

よかったら、6月の日に読んでみると改めて、日々の幸せに気づくと思います。

 

以上 報道局からでした~。