例えば時計のように精密な機械だと、
ほんの小さな狂いでも動かなくなる。

人と人のとつながりもひょっとしたら
これと似ているのかもね。

時計が正確に時を刻むように
何の疑いもなく、このまま同じ時間が流れていくと
信じ込んでいても、

些細なことで、そんな流れを止めてしまう。

時計のように「精密」ではなく、きっと「危うい」ものなのだろう。
時計は修理すれば簡単に元に戻せるけど、そんなに人は簡単じゃない。

行動や言動からある程度の傾向は掴めても、それは所詮何万分の1にしかならない。

悲観的になるのは簡単。自分を悲劇の主人公に仕立て上げればいいのだから。
時計と似ているなら、きっと歯車が噛み合わなくなったんだ。

だとすれば、俺がその歯車に合うように変わっていけばいい。
きっと、その時また同じような時間を刻むことができるだろう。
出かけるときは必ず腕時計を身に付ける。
深い意味はない。

オフだった今日は敢えて腕時計をせずに出かけた。
これも深い意味はない。

普段時計をすることで、正確な時間を把握できる。
「何時までに○○を済ませて・・・」と言った感じ。

さすがに携帯電話が無いと何かと面倒なので、
鞄に忍ばせてはいたけど・・・。

普段なら確認できる場所(腕)に時計がない。
その事で時間を気にする必要がなくなる。

もちろんいつもの習慣(時間の確認)からすると、違和感はある。
それと同時に普段どれほど自分がこの「時間」に左右されているかにも気付く。

時計を身に付けていても、いなくても流れる時間は一定だからかわりはない。
それなのにいつも追われている感が否めないのは俺だけではないはず。

誰でもそうだと思うけど、不便ならそれをカバーするために工夫をする。
(携帯電話も持っていないとして)例えば時間を知りたければ、時計がありそうな
場所を想像したり、実際に時計を探したりするだろう。

自分が求めなくてもさまざまな情報に溢れている中で生活をしていると、
少し前まで考えられなかった事も、いつの間にか「当たり前」になっている。
感覚がマヒしているのだろう。

何が必要な情報で、何が不要な情報かを瞬時に判断するのは難しいけど、
想像したり、考えたり、人がこれまで「当たり前」としてきたことを「ありえない」と
ならないように気を配りたいですね。
喜怒哀楽。人が抱くさまざまな感情。

喜びや楽しみは多いほど、ありがたい。
傷みや哀しみを知ることで、誰かに優しくできる。

だけど、怒りは人を狂わせる。
冷静な判断を奪う。

人によってさまざまだろうけど、俺は一度火のついた怒りを
抑えることが苦手なタイプだ。

面倒なことにひきずったりする。

その事で、視野が狭くなり、理性を失う。
感情のみの行動をし、ふと我に返り後悔する。

怒りという感情さえなければ、もっと気楽に過ごせるのか?
怒りという感情さえなければ、もっと穏やかにいられるのか?

穏やかに、そう、穏やかに生きたい。
「気の所為(せい)」

辞書でこの言葉をひくと、「
明確な根拠がなく、自分だけが感じとること」とある。
霊感があるわけでもなく、どちらかと言うと目に見える事を信じる傾向があるけど、
なんとなく「気」の存在はあると思う。

調子がいいときなんかは、何でも出来そうな気分になるし、
そうでないときは何をやってもダメな気持ちになる。

最近はダメな流れを感じていた。
人を傷付けたり、自分が傷ついたり。
些細なことでイライラしたり。。。

そんな流れを断ち切りたい時必ず行うことがある。
単純だけど、

部屋の掃除。

部屋の空気を入れ換えたり、いつもよりも3割り増しくらいにコロコロかけたり、
風呂やトイレを入念に掃除をする。

「汚れ=邪気」なので

それをきれいにすることで、悪い流れ(邪気)を払う。
何も変わらないにしても、部屋は確実にきれいになる。

そして、邪気を落としながらここ最近に起きた「悪い流れ」を回想する。

汚れが落ちるのは目で見て分かるし、気分も良くなる。
そうすることで、気持ちの整理も、俺の場合できる。

信じる信じないは問わないけど、これなら騙されてもいいはず。

もし、騙されたと思うなら、こう思ってください。

気の所為だと。。。
気持ちが沈んでいるときは、調子がいいときに比べいろいろな事が見える。
ある時気が付いた。

俺には「役割」がある。と

元気な人、いじられる人、いじる人。
人を惹きつける人、そうでない人。。。

生まれ持ってのものじゃなくて、その人が歩んできた中で
自然に作られた、キャラクター。

俺は面倒なことに、明朗快活なキャラクター。

誰にだって気分のいい日と、悪い日はある。
だけど、本来のキャラクターを知っている人からすれば、
別のキャラクターの俺を見ると違和感を感じるのだろう。

俺からしても、そんな周りの変化に気付く。

「無理することはない」という意見もあるだろう。
それは十分分かっている。

明朗快活なキャラクターだと思っていたのが、
明朗快活なキャラクターでいることが俺に与えられた役割。

だとすれば、本来のキャラクターを演じるしかないわけだけど、
演じ方が分からない。普段どのように振る舞っていたのかも。

卑怯者の俺は、仮病という武器を身にまとい調子の悪さを肯定しようと試みる。

それでも、親切な人たちはそんな俺の心配をしてくれる。

結局俺は自分に与えられた「役割」をこなすしかないようだ。
苦しんでいる仲間がいるなら、手を差しのべてあげたい。
そう思うのは当たり前。

信頼できる仲間であれば、いろんな事を共有したい。
そう思うのは俺のものさし。

大切な仲間に不信感を抱き、その思いをぶつけた。
その瞬間だけ、スッキリした。

でも、結果的にその人を傷付けた。
その事に気付いた俺も虚しかった。

自分のものさしが万国共通とまでは思っていないけど、
誰でも同じようなものさしを使っていると思っていた。

・・・結果的に違っていた。

その人のものさしでOKな事も、俺のものさしでは許せない。
俺のものさしで怒っていることは、その人のものさしでは分からない。

結局俺は何をしたかったのか?

何もせずに我慢をしていれば、多分嫌っていた。
気持ちをぶつけることで、相手が傷つくことも予想できた。

相手を理解していると思っていたけど、そう思いこんでいただけ。

他人が誰かのことを理解することはそんなに簡単な事じゃない。
それに気付かせて貰った。

その事に支払った代償はこれからゆっくり返していこう。