創価の光 -6ページ目

随方毘尼

仏法は、時代・地域・人種・性別・年齢を問わず、万人に共通の根本法則です。そのうえで、仏法は、さまざまな文化の多様性を認め、その在り方を最大限に尊重します。そうした仏法の考え方から出てきた法理の一つに随方毘尼があります。
これは、随方随時毘尼ともいい、仏法の根本の法理に違わないかぎり、各国・各地域の風俗や習慣、時代の風習を尊重し、それに随うべきであるとした教えです。
「随方」とは、地域の風習に随うこと、「毘尼」とは、戒律の意味です。
日蓮大聖人は「此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり」(御書1202ページ)と仰せです。
要するに、正法という根本基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根本原理に関する事柄でなければ、一般の風俗、世間の普通の約束事を尊重し、用いていくことを説いているのが日蓮大聖人の仏法です。

謗法

謗法とは、「誹謗正法」すなわち正法を誹謗する(=謗る、悪口を言う)ことをいいます。
正法とは、釈尊の一切経のなかでは法華経のことであり、末法においては事の一念三千の南無妙法蓮華経です。
正法に背き、正法を信じようとしない不信が謗法の本質ですから、謗法は自ら厳しく戒めなければなりません。
それとともに、成仏のためには自ら謗法を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。
日蓮大聖人は「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(御書1056ページ)と仰せです。
このように、邪義に執着し、正法を破壊しようとする者は厳しく破折しなければなりません。

善知識と悪知識

知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。知識のなかでも正しく仏道に導いてくれる人や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
凡夫の心は揺れ動きやすいものであり、仏道修行の途上においても、ともすれば自身の弱さに負けて修行を怠ったり、正しい仏の教えを見失ったりしがちです。そこで、常に正しい仏道に導き、信心を触発してくれる善知識が必要なのです。
それ故に日蓮大聖人は「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり」(御書1468ページ)と、教えられています。
逆に仏道修行を妨げる悪知識については、涅槃経にこのように説かれています。
「たとえ凶暴な悪象に殺されたとしても、それは何ら恐れることではない。なぜならば、たとえ自身の肉体が破壊されることがあっても、自身の心は破壊されていないのだから、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることは決してない。しかし、悪知識によって心が破壊されたら、必ず三悪道に堕ちる因を作ったことになる」
したがって、善知識に親近するとともに、悪知識を遠ざけることが大事になります。
また大聖人は、もう一歩進んで、仏道修行を妨げようとする悪知識をも成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきことを示されています。その時は悪知識も善知識ととらえられるのです。
すなわち「種々御振舞御書」に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(同917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(同962ページ)と述べられています。