創価の光 -4ページ目

我が偉大なる師匠

 我が師匠、世間からは非難中傷されつづけながら、我らを守り、またご自身は、孤独と重圧に耐え、常に我らの先陣を全力で切り開いてこられた師匠、その名は池田大作。入信当初は、自分とは別世界の人と思っていた。そう社会の歴史の中に埋もれていく青年と偉大なる一宗教家との出会いは小学生の頃、近所の学会員さんの家に貼ってあったポスターだった、その時の師匠の姿は、ポスターなのに光輝いていた。その時、こんな人が僕の人生の先生だったら、お父さんだったらいいなあと幼い心で感じていた。以来小学校から帰ってくる度に、ポスターに向かってお父さんただいまと心で挨拶していた。

 そのポスターごしの出会いから、18歳の時に初めて人生の師匠は池田大作なりとの明確な契りを結んだ。師匠に届いていなくても、師匠が嫌だといっても、勝手に自分で人生の師匠と決めて生きていく覚悟をした。

その師匠も80歳になられる。遠く宇和島の吉田から、師匠の安否をいつも心配する。お体は大丈夫か?お風邪はひかれてないか?食事はきちんととられているのか、師匠が年を重ねられる度に、その心配は、益々強くなる。又、同時に、弟子とすれば師匠が涅槃に入られた後、邪悪な輩が、師匠が命よりも大切にしてこられた創価学会を崩そうとした時、世界の同志を誰が守るのか、第一線で広布に戦う創価の母を姉を妹を弟を父を誰が守るのか、そして新時代の若師子をいかに育てるか、見栄ではない、宣伝でもない、流行の流行る生き方でもない

自身が自身の手で自分の宿命に強く敢然と立ち向かう、その強さを持つ本物の若獅子を如何にそだてるのか

今の現実、東京で待つ師匠の元に駆けつけたくても、片道の旅費も無い状況で、我が心だけが、師の安否を気遣い・師の無事を祈り・創価の本陣の安泰と発展を心から念じる毎日

 師の思いを我が思いとする、この一点を体得しようと師匠の歩んできた人生を自分の人生においても体験しようと歩んできた34年間。今、私は悩む苦しむ船は船頭が一人いてはじめて真っ直ぐにすすめる。船頭が二人三人いたら時として船は進路を間違える。私は、その事だけを心配する。

 師匠が歩んできた苦難の道なれば、我も又歩んでいこう。師匠が耐えに耐え偲びに偲んだ道なれば私も耐えよう。それは、師匠が弟子としたのではない。僕が僕自身の決意で師匠と決めたからだ。

 以前、師匠が本物の弟子よ出ておいでと言われた時、悔しかった辛かった、すぐに飛んでいくのが弟子の勤め

、その事がわかっていながら、行くにいけない辛さ苦しさ。皆は知るまい、私が、どれほど、師匠の身を案じていてもたってもいられないか。

 弟子として、こんなに悔しい事はない。僕は、ただ・ただ師匠が宗門事件でたえられた痛みを私も受けたい。師匠を誹謗中傷する人間に言いたい、師匠を誹謗中傷するなら、その前に、私にしろと、私が師匠にかわって全てを受ける。と

 師匠は、先日、新聞にて我ら門下に長編詩を贈られた。私は、その詩を受けて、すぐに私の思いを、このブログで詩として書いた。

 それは、師匠が弟子に宛てた手紙なれば弟子も師匠に返す。弟子の誓いを師匠に返す。これが本物の師弟だ

 私がここに書くのも、師匠が亡くなって邪悪な者が創価学会を乗っ取ろうと企てても私がいる限り絶対に許さぬとの決意の現われ。

 私は、日蓮大聖人様から牧口常三郎先生から死身弘法の生き方を学び、戸田城聖先生から一人立つ勇気と王者の生き方、悪とは徹底抗戦する謗法厳戒の生き方、池田大作先生からは世界に目を向け様々な事を教えていただいた。そんな中、ふと思う、師匠と師弟の契りを結んでから、創価三代の師匠の真実の姿が私に今まで、どれだけの勇気をくれたか計り知れない。今、私は大願をたてた、あとは時だ。私が立ち上がる時がくれば私はいつでも立ち上がる。いつでも師にかわって師を庇い、師の前にたって敢然と非難中傷の刃を我が身一身に受けて忍難弘通の闘いを展開する。

 諸天よ動け、広布の舞台を更に拡大し更に前進させ、師匠の偉業の万分の一でも担う為に

 我が人生は法華経に捧げたり、我、名聞名利は惜しまず、一宗一派の衰亡の問題ではない、一国の日本の未来を安んずるのみ、されば、われと同じ覚悟をしたる本物の同志はいずこにありや

我と生死を共にする本物の行者はどこにありや

我と共に師匠を宣揚する本物の地湧の菩薩はいずこにありや

早く師匠の元に行きたい

早く師匠に休んでいただきたい

師匠の広大無辺の慈悲が私を師匠が歩みし孤独と非難中傷の刃の杜にお供をさせてくだされた

その師匠のおかげで、孤独と非難中傷の杜を出て、我は不屈の信念を得たり私は師匠にお会いしたい

その麗しきお顔を拝して、我が胸にある、この広宣流布への熱き思いを

我が死身弘法の旅を見ていただきたい

 諸天よ動け、我が思いを師匠に届けよ

 我が師弟は久遠の師弟

 師匠生まれる時は弟子も又生まれたり

 共因共果の縁なれば


弟子の悩み

師匠の事を思う時、夜も眠れなくなる。お体は、ご病気はと、先日も、本物の闘士は、いるだろうか。いるとしたらどこにいるだろうか・・この一点であるとの師の言葉
たしかに師の切実な思いであろう
幹部会で最高幹部に厳しい顔でいった。派閥は絶対にダメだ。との言葉
何故、あの時全国の前でいったのか
答えは簡単である。派閥の種がすでに最高幹部の中にでてきているからであろう
そして、その種が芽をだした時に、我々にそれを絶対に許すなという事であろう。監視せよとの事でもあろう。
 師のいなくなった後、天地が割れる程の動揺が走る事は間違いない。
 また、師のいなくなった後に、名聞名利に走る輩もでてくるであろう
 そうなると苦しむのは誰か・・・・無名の尊き戦士達だ
 その時、誰が、その人を守るのか
 誰が一切の矢面にたって守るのか
 我に、その自覚ありやなしや
 今、師と会えぬのが苦しい
 されども、御本尊の計らいであろか
 師と離され、一人で強くなれと
 様々な大難が我を襲う
 我から手足を奪い動けなくする為の試練
 今まで一つ一つ切り開いてきた

 師も確実に老いていかれる、これは自然の摂理
 なれば我は、すぐにも師に成り代わりて
 先陣に立つべきか
 常に悩むこの問題
 人類の未来がかかっているだけに
 うかつに動けぬ
 南国の獅子王の咆哮に
 老いた獅子王はいかに答えるか
 会いたい
 会って師匠に休んでいただきたい
 その変わりに我がなすと
 皆はそれを待ち望んでいるのであろうか
 それとも、このまま南国の獅子として生きるべきか
 悩まねばならぬ苦しまねばならぬ
 その先にしか答えはない

宿命とは

人生のなかで出あう悩みや苦難はさまざまです。そのなかには今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。“自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこのような苦しみを受けなければならないのか”と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。
仏法では、このような苦難は、過去世において自分が行った行為(宿業)の結果が今世に現れたものであるととらえます。「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。この宿業には、善と悪の両方がありますが、今世の苦悩をもたらす過去世の悪業を宿業という場合が多いと言えます。
仏法では、“三世の生命”あるいは“三世の因果”を説きます。すなわち、生命は今世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるものであり、過去世の行為が因となって現在世の結果として現れ、また、現在世の行為が因となって未来世の果をもたらすと見るのです。
過去世に悪因があれば今世に悪果(悪い結果)があり、善因があれば善果があるとするのが、仏教一般で言われる宿業の因果です。しかし、これで終わってしまっては、現在の苦しみの原因はわかっても、それを変革することはできず、未来世にわたって生死を繰り返しながら清算していく以外に道はないことになります。このように、宿業の考え方は、往々にして希望のない宿命論に陥りやすいのです。これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。