以前にこの浜名湖シリーズ①~④を書いている時に、サブタイトルに挙げた浜名湖南部陸地説のネット情報を読んでいた。
好事二字令なる歴史上の法律の名前を知ったのも、このネット記事のお陰だった。その意味でとても興味深い内容だった。また、「淵=敷智で敷智郡」や「京田(都田)」など古代の地名が出てきてビックリ。ただ、あまりに大きな話であり、素人のブログ記事で紹介して構わないものか判然としなかった。なんだかドギマギしてしまい、この記事の下書きを書いたまま一旦ヨコに置いておいて忘れるようにしていた。
<神石山から見た浜名湖> ※2020.4(再掲)
(1)旧浅羽町や石巻を歩いて
2024年冬に袋井の命山(登るヤマではなく高潮や地震発生時の避難場所)を見学した時に、旧浅羽町周辺の遠州灘よりもっと南の方にかつて陸地があったことを示す展示物を見て、浜名湖南部陸地説を急に思い出した。浜名湖の陸地ってもしかしてこのことを言っていたのだろうか?
また、2024年秋にカヤックするために石巻市を訪れた。そこで、3.11東日本大震災の後で地盤沈下したものの10余年を経た今では逆に隆起してきたとのだと知る。そのため港では漁船に乗降するのに一苦労しているようだった。嵩上げした港が高くなりすぎてしまい、もう一度削っているとの話も伺った。
※参考ブログ(浅羽町と石巻のAmeba記事を弊HPで1本に集約済)
そんな事もあって、改めて冒頭のネット記事を読み返してみた。
(2)陸地があった位置
浜名湖南部陸地説で主張しているエリアは、弊ブログ「浜名湖を調べてみよう③」ブログで書いた内容(Wikipedia地図の引用あり)と同じものだった。
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平安時代には遠州灘と浜名湖には標高差があり、浜名湖の方が1mほど高地にあった。なので、浜名川も浜名湖から遠州灘へ南西に流れていた。ところが、室町時代の明応大地震(1498年)で浜名湖の水位が1m沈下して、更に地震に伴う津波で今切口が現れた。それは即ち、浜名湖と遠州灘の水位が等しくなって汽水湖に変わったと共に、灰色部分の土地が水没して湖面が広がった事を意味している。
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※出典:弊ブログ
浜名湖はもともと内湾だったもので、天竜川が上流から運んできた砂州によって陸地を形成してできたものだと考えるのであれば、今切口の南に陸地はなかったと考えるのが自然だろう。また、庄内商工会HPに載っている古地図などを参照しても、今切口よりもっと南側に陸地があったと言う話は確かめられなかった。
※参考サイト
http://www.hamana.net/shounai/rekisi/mizuumi.htm
ただ、冒頭のリンクに「現在の弁天島は……(中略)……陸地周辺を昭和初期に埋立、造成した土地です」と書かれており、もし遠浅の地形が浜名湖の下に隠れているなら遠い昔にそうした陸地があったのかもと淡い夢を抱かないでもない。
(3)この説の評価
ところが、今年になって新居の命山「今切の丘」を見学した日に「荘境石」を見つけて境界を示すものや荘園についてあれことと調べ始めることになった。そんなある日、以下に挙げる静大(静岡大学)リポジトリで見つけた資料にこんな記述があるのを見つけた。同資料から抜粋すると、こうと書かれている。
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これらの図の著者のひとり向坂に私信で質したところ(2005.4)、指橋されるまで干拓事業、雄踏・篠原区域塩漬の事実を認識しておらず,『嶋・向坂(1976)を描いたとき、浚渫によるものと思って、浜松市教育委員会(1976)のように改めた』という回答が返ってきた。……(中略)……
したがって、向坂(1976)、浜松市教育委員会(1976)、嶋・向坂(1976)で示された三つの古代浜名瀬はいずれも地史には関係なく、誤った図と断定せざるをえない
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※出典
よって、(正確なところは読み切れていないものの)浜名湖南部陸地説は現在においては否定されたものと考えていいのだろう。折角のロマンある話だったが、当時のリサーチの後に明らかになった事実によって推論が変わっていくのは致し方ないことだ。