今年になって中国旅のブログ第三弾を書き始めた。先ずは旅ノートなど見ないで頭の中に記憶していることだけでガーッと書いてみた。でも、ヤルダン(敦煌)と鳴沙山で猛烈な砂嵐に見舞われて悲惨な体調に陥って苦しんだことを除くと、私のシルクロード旅はある意味でかなり順調な旅だった。なので、どうしてもインパクトが欠けるような気がしてならない。

 

<咸陽の西安空港近くで泊まったホテルにて> ※2012年

 

そこで、ネタ探しも兼ねて中国史の本を読み返してみることにしたのだ。その本に中国河北の地図が何枚も載っていた。中国と言えば黄河と長江(揚子江)。黄河は筆記体で「r」を書いたように一旦北に流れを変える。その後、東へ、南へ、東へと何度も直角に向きを変えていく。

 

ただ、よくよく見ると、時代によって黄河下流域のルートが全然違っているのに気付いた。ある時期は青島がある山東半島の南に、別の時期には北に注いでいることが確認できたのだ。

 

<明代初期(14C末~15C初)の華北map>

 

<南京国民政府(1928年頃)の華北map>

 

これって、印刷ミスなのか。勿論そんなことはなくて、時代によって黄河の流路は何度も変わってきたのだと知る。地震や津波の威力は凄まじいものがあるけど、高低差を伴って河川を流れ落ちる水の力は侮れない。土砂とともに下流域を襲ってくるのだ。

黄河改道の歴史を調べてみると……

 

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黄河改道とは、黄河の大幅な河道変遷を指す。歴史的に見ると、黄河は昔から「善淤(濁る)、善决(決壊する)、善徙(移動する)」とも言われ、人々の間では「3年に2度決壊し、100年に1度道を変える」という俗言があった。……(中略)……

紀元前602年から1946年までの間に、黄河は1593回氾濫し、26回の大きな転流があり、そのうち6回は「六大移動」と呼ばれるほど影響力が大きく、

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※Wikipediaより

 

<清代にドラスチックな流路変更あり>

 

1855年の出来事を調べてみると、それを「咸豊黄河大改道」と呼ぶのだと知る。

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1855年8月1日(咸豊5年6月)に発生した河道変動。黄河は河南省蘭考県銅瓦廂で決壊したことで河道を変え、北へ向かい、山東省で海へ注ぎ込むようになり、現在に至っている。

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※Wikipediaより

 

もしかして黄河の下流域が安定しないため、中国の経済圏が東西軸にあったころは関中(咸陽や長安)、中原(洛陽)、中流域の開封に都があったものの、その後に南北軸(北京―上海―広州)へ構造変化した後には、さらに下流域に都がシフトしていかなかったのだろうか。