アントニオ猪木を偲ぶのに良い、落ち着いた映画だった。福山雅治(彼が東京で初めて会った有名人が猪木だった)があの声でナレーションしていた。この1年で猪木ブログを何本か書いているので、ここではいくつかのポイントに絞って書きたい。

 

<ネットより>

 

(1)いろいろな世代に元気を与えた存在

アントニオ猪木の功績はこの1点に集約してもいい。この映画では3つのショート・ストーリーが組み込まれていた。

 

・80年代の小学生: 強い猪木を熱烈に応援

・90年代の高校生: 猪木の言葉に勇気を貰う

・21世紀の逆境に耐えるオヤジ: リングで顔を歪めて苦闘する猪木の姿に共感

 

想えば自分もこの3つ全てを体験してきたと思う。猪木が「ストロングスタイルが最強だ」と言えば、馬場と猪木が試合をしても勝てると確信している。どんなに強い相手と戦ってフォールされても猪木がカウント2.5で立ち上がる事を知っている。いつの頃からか古館アナが「カウント2.8で猪木が返した!」とまくしたてていたのを覚えている。

 

また、高校生の背中を押した「試合に出る前から負ける事を考えている奴がいるか!」は説明不要だろう。

 

政治家となった猪木についてその当時は把握できていなかったが、単独でイラクに乗り込んで救出した事も、その文脈において同じだ。

 

(2)マサ斉藤との巌流島

これは当時「週刊ファイト」の記事で読んだものの、実際の映像を見た記憶がない。だから猪木の生涯の名勝負に入れていいものか分からない。マサ斉藤は維新軍・長州力の顧問のような立ち位置だと思っていたので、当時もそこまで注目した事はなかった。

 

この映画で試合を扱っていたのは、現代に不似合いな決闘の臭いがする試合だったためか。照明もない島において夕闇の中で決着した。これではTV映像として使えない。

 

TV中継の映像細部にまで拘ったと言うアントニオ猪木が、それでもこの試合を成立させた理由はよく分からない。観客がいない状態では鉄拳制裁のナックルパートも魅せるインデアン・デスロックも不要。地味な真剣勝負しか成立しなかっただろう。

 

(3)黒柳徹子に振られて

猪木が若い頃のテレ朝「徹子の部屋」のワンシーンが流れた。黒柳さんが「八百長とかなんとか」って失礼な発言を挟んできた。八百長は相撲だけで十分。

 

プロレスには反則負けとかリングアウトとか曖昧な決着があるのは否定しないけど、白黒つかないケースがあるのは人生にもある事だから許容範囲でしょ。ラグビーの試合も選手の疲労を考えて1週間くらいのインターバルを設けているけど、プロレス興行だって毎日毎日100%フルで闘うのは限界がある。

 

猪木はこの質問に上手く答えていた。「レスラーは対戦相手と客席の両方を見て戦うものだ」そう、「風車の理論」は猪木自身のためでもあり、会場全体を盛り上げるためでもあり、巧い答えだった。

 

(4)2002年の猪木問答

このシーンも初めて見た。2002年には私のプロレス熱はゼロになっていたし、現代の選手もサッパリ分からない。

 

猪木が「お前は何に怒ってるのか!」と4人の選手に問うていく。ただ、ジェネレーション・ギャップの故か会話が成立していない。そいつらに猪木が加える言葉はものなかったって事だ。

 

ただ、プロレス会場で失笑が湧いていた原因は若手レスラーにある。おめえら、一所懸命にプロレスやっているのか! って問いが届かなかったのだ。確かに怒り以外にもプロレスに込めるモノはあるだろう。猪木の世代がそうだっただけなのかも知れない。でも、猪木のファイトが観客の心に響いたのに、今ではプロレスを見ようともしない自分がいるのはやっぱり熱量が足らないからじゃないかと思うのだ。猪木としたら「お前らに足りないものがあるから新日本が盛り上がらないんだよ!」そうストレートに言えないもどかしさが喉元でつっかえていたんだろう。

 

熱量の元は怒りでも何でもいい。ネガティブな感情であってもそれがパワーに、熱量に繋がればそれでいいと思う。私の中で、その熱量を継承できていたのは長州力と前田日明までだった。長州の場合には客席も含めて「かませ犬発言」が強烈なパワーとなった。前田はホントに強い事、セメントマッチへの渇望だったのか。UWFをちゃんと追わなかったのでハッキリと理解できていない。

 

(5)藤原喜明は素直すぎる

この映画で、1984年の札幌・中島体育センターでの長州襲撃事件について本人が発言している。でも、あれはニヤニヤしながら喋らなくていい。正直すぎる。だったら、同じ事をT・J・シンにも聞いてみたくなるじゃないか。