2023年5月に寧比曽岳へ登った。その模様はまた改めて書くとして、今日のブログは初めて知った地名や街道をいくつか紹介したい。
<寧比曽岳>
(1)七州
実はこの日”七州”って聞き慣れないワードを初めて聞いた。バス乗換のために香嵐渓バス停で下車。紅葉で有名な香嵐渓は未開拓なのに、そこを素通りして寧比曽岳に登ろうって人は珍しいかも知れない。バス停はちょうど豊田市役所・足助支所のまん前にあった。そこの碑文で見つけた文字が”七州”だった。
九州は7県だけど今でも九州と呼んでいる。八州は家康が秀吉に移封された関八州には、飯能(埼玉県)に関八州見晴台ってヤマがある。私も以前に登っているけど、標高700m台で日帰りにぴったり。
それにしても七州って響きは聞いた事がない。七州って何? 検索してみると三河の人達はいにしえより都である京都を想いながら西方を望んでいたんだろうな。そんな空気感が漂ってくる。
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童子山の高台には、かつて挙母城の城郭(本丸)が置かれていました。この挙母城は、三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの国が望めることから七州城と名づけられました。現在は本丸跡が豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されており、櫓台の石垣が残っています。1978年(昭和53年)には隅櫓が復元され、童子山に挙母城があったことを今に伝えています。
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※出典
https://www.tourismtoyota.jp/spots/detail/59/
<寧比曽岳山頂にあった登山愛好者の資料より>
(2)足助
七州よりも、そもそも足助支所の足助って気になる文字だ。三河探検を始めてから引っ掛かっていた言葉だけど、これを「あすけ」とは読めない。
先ずは一般用語の確認から。
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金銭のこと。一般に云ふ「おあし」のことで此の「足」を擬人法として助を付けて云つたのである。一円を「円助」、五十銭を「半助」といふ
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※出典
今はトヨタ自動車のお膝元である愛知県豊田市の一角だが、平成の大合併の前には東賀茂郡足助町だった。おそらく足助町役場だった建物が市役所の支所なんだろう。21世紀にしっかり木造を使い続けているのが嬉しい。
<豊田市役所・足助支所はまだ木造>
江戸時代には塩を運ぶ宿場だったので意味と合致している。そして、岡崎の北に位置する足助町なので、もっと遡ればやはり家康と関わりがある。
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大永5年(1525)、岡崎の松平氏(のちの徳川氏)が足助城を攻め、それ以後足助城は、松平氏や今川氏、武田氏の戦国大名にくり返し攻められました。
鈴木氏は、これらの戦国大名に従ったり、離れたりしましたが、徳川 (松平)家康が三河をおさえてからは家康の家来になり、各地の戦いに参加しました。
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※出典
https://denken-asuke.jimdofree.com/%E8%B6%B3%E5%8A%A9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
(3)拳母
この字も読めない。ここはTBSで以前にやっていた佐藤浩市・主演のトヨタ創業期を描いたドラマで知った。覚えたつもりなのにそれでも「あげも」と読んでしまう。意味不明で馴染みがないためだ。
正しくは「ころも」と読む。検索していると「拳母城」が名鉄・豊田市駅の近くにあるらしい。しかも、今では豊田市美術館の敷地になってしまったとか。歴史の痕跡を変えてしまうとは恐るべしトヨタの都市開発パワー。名鉄・豊田市駅の周囲はその沿線周辺の姿と大きくギャップを抱えているので、妙な圧迫感を抱えた場所だ。
冒頭で紹介した七州ってワードがなんと拳母城の別名にもなっている事は前述の通り。でも、拳母って漢字はやっぱり不思議な取り合わせ。以下サイトを見つけた情報によるとかなり古くからの地名のようだ。この地名も好字二字令(ここはいずれ改めて)によるのか。
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はっきりしていることは古代には「衣」と書かれていたことです。『古事記』の垂仁(すいにん)天皇記には、「落別(おちわけ)の王は小月の山の君・三川の衣(ころも)の君が祖ぞ」とあります。
……(中略)……
問題はその「衣」がなぜ「拳母」と」表記されるようになったかです。漢和辞典を見ていたら、「母衣」と書いて「ほろ」と読む言葉を発見! 意味は(1)「昔、矢を防ぐため、よろいの背に負った布製の袋状のもの」、(2)「車などの風雨や日光よけのおおい」ということです。これを見てかつての西部劇ファンの皆さんは「幌馬車」を思い出しているはずです。「幌」と「母衣」は同義なのです。
私はこう考えました。「衣」というのは身体を包んで外部から守るものだが、「母」も子どもを衣で守る役目を負っていた。「母を挙げる」というのはそのような母親の優しさを象徴的に表したものではないか―――。これは推測の域を出るものではありませんが、昔の人はそのレベルまで思いを及ぼして、「拳母」を伝えてきたのではないかと考えます。
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※出典
https://plus.chunichi.co.jp/blog/tanikawa/article/190/540/
(4)中馬街道
ちゅうま街道と呼ぶのだと知った。このルートを知ると確かに豊田市が東方に伸びる形で勢力拡大してきた理由が分かる気がしてきた。
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その昔、中馬街道は三河湾でつくられた塩を山間部へ運ぶための「塩の道」でした。 矢作川を川舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)で荷揚げされた塩は、足助の塩問屋で荷直しされ、信州方面へ中馬によって運ばれていました。中馬とは、江戸時代の中ごろ、信州でつくられた馬の背で荷物を運ぶ人々の組合のことです。
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※出典
https://www.cbr.mlit.go.jp/road/chubu-fukei/route/04.html
糸魚川~塩尻、駿遠地方の相良~塩尻と同様に、三河にも信州に向けて塩の道があったのか。確かに忠臣蔵で有名な吉良の領地は塩が採れると聞いた事がある。信州へ向けたいろいろなルートがあるのは、それだけ塩の需要があったって事。あまり量産できるものではないのか、それとも産地によって味の違いがあるのか。
(5)百々
これは岡崎市と豊田市のバス車窓でともに気になった地名。プロレスファンなら百田(力道山の苗字)を「ももた」と読める。対して百々は読めなかった。
正解は「どうど」。かつて岡崎市に百々城があったとか。ついでと言ってはあれだが、岐阜県の低山に百々ヶ峰は「どどがみね」がある。擬態音みたいに濁音が続くのってなんとも発音しにくい。
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百々町は、古くは「百々村(どうどむら)」と呼ばれ、百々城という城が築かれていました。百々城は、徳川家康が生まれたことで知られる元祖徳川家の本拠地である岡崎城の北側に位置する重要な役割を果たした城です。……(中略)……
他地域の「百々」の由来を調べてみると、「水の音」にちなんでいるとする説が多くみられます。
「どうどう」「どんどん」「とうどう」と流れる様子を表しているようです。「百々」とかいて、「どうど」と読む理由は、「10×10が100だから」とする説が濃厚です。「とうかけるとう」→「とうとう」が、なまって「どうどう」や「どうど」になったとのこと。百々町の近くを矢作川やその支流が流れていますので、水にちなんでいるのでしょうか。
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※出典


