時期: 2023.5.中旬

行程: 遠州森駅(11:30)→山頂(13:00)→遠州森駅(14:20)

 

NHK「どうする家康」にちなんだ三遠地方の城巡り。この日に目指すのは天方城址。森町のイラスト地図を見ていると、この天方城は3つある。太田川の北西に2城、天方本城と天方古城、川の南東に天方新城が描かれているのだ。はて何処に行くべきか。ネット検索してもいいのだけど、ここは徒手空拳でとりあえず現地に出掛けてみた。

 

天竜浜名湖鉄道の遠州森駅で下車。取り敢えず、太田川を目指して歩いて行く。各地に小京都を自任する街は多い。有名なのは秋田・角館だ。かなり昔の紅葉の時期に歩いた事があり、あそこは確かに雰囲気がある。果たして遠州の小京都はどんなものか。

 

<建設業者の広告塔、ここは遠州の小京都>

 

 

私が歩いた限りではそうした雅な面影は感じられなかった。でも、周囲には低山がいくつも迫ってきており、のんびりした山間のいい所ではないか。またこの森町は海岸沿いの相良町から掛川市、春野町、龍山村、水窪町と続く塩の道のルート沿いにあり、往時には宿場として賑わったであろう古い建物も残っていた。

 

<雨後の太田川を渡る、山頂まであと2.5km>

 

 

前々日までの雨のせいか、太田川の水は濁っていた。

 

下図で見ると川上から順に本城(本城山)、古城(白山城跡)、新城(城ケ平公園)と記されている。川沿いに遡上すると、天方城址は川向うだと書かれているのを発見。「新城」、「本城」、「古城」と言った区別はないがまあいい。ここに来てようやく天方新城がこの日の目的地に定まる。

 

<森町の観光マップをZoom-up>

 

田舎の住宅地が終わると雑木林で薄暗い舗装道路をゆっくり上がっていく。車の往来があるものの、人力で上がっていく人はいない。唯一ジョギングしている人とすれ違っただけ。標高は僅か248mの低山なので大した事ではないのだが、舗装道路なので斜度はとかく緩くいつ登り終えるともしれない長い道のり。

 

<山頂、物見櫓みたいな展望台>

 

 

天方城址の痕跡は山頂部に遺っていた。僅かな堀跡がハッキリ残っていて凹凸が繰返されている。既に400年も経過して木が大きく成長しているので、往時にはここが裸の城址だったのかなかなか想像が付きにくい。ただ、展望台から下界を望むと、今も田舎の風景が広がっていた。

 

<中央に伸びているのは第二東名、展望台の前に回ると>

 

 

行きと同じように犬に吠えられて、セブンイレブンに寄っておにぎり買ってそのまま駅に戻った。

 

<終点>

 

尚、天方城が武田と徳川に翻弄された歴史については以下サイトを参照。同様の事が山頂の案内板にも書かれていた。天正2年(1574年)の事は次回ブログで書く予定。

 

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永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年6月19日家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃。……(中略)……

それから3年後の元亀3年9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて犬居城主天野氏の案内で飯田城を攻略して天方城にせまった。天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。……(中略)……

翌天正元年3月家康は「信玄に降伏したものを捨置くべきにあらず」と、天方城攻略を決行した。

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※出典

http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/amakata.htm