歩いた順番と前後するが、この日の目的地・高根城址について。ここはオススメ!
<大手門の手前、向かいの山肌をZoom>
高根城址の概要に関しては以下ネット情報で代用。
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高根城跡は、水窪の町の東南端の九頭合の山頂、標高420mに位置しています。南北朝時代、後醍醐天皇の孫である伊良(ゆきよし)親王を守るためにこの地の豪族である奥山金吾正貞則が応永21年(1414年)に築いたといわれています。……(中略)……この地域に権力を及ぼしていた今川義元も桶狭間の戦いによって倒れ三河の徳川家康、甲斐の武田信玄の力が及ぶことになりました。
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※出典
実はこの水窪観光協会のHPはかなり詳しく記述してくれている。先日も犬居城とか県境の峠道の事をネットで調べていたらここのサイトに辿り着いた。
余談ながら、上記リンクに「池の平」なる観光スポットが紹介されていた。7年に一度現れる池ってロマンがあるなぁ。それに7って素数だから素数セミと同様に秘められた自然の謎が隠されているのかも。
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この池は、まぼろしの池と言われて、7年に一度、自然に水が湧き出て来るのです。ここは山の上ながら、多い時には池の長さ60メートル幅40メートル深さ4メートルほどで、底が手に取るように透き通って見えます。
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さて、水窪橋から仰ぎ見ると、大小2つのヤマが近くに見える。その小さい方の頂になにやら櫓らしきものを見つけたので、早々にターゲットが定まり余裕で歩き始める。看板に「山ヒル注意」と書かれており、スパッツを持ってきて正解だった。
山頂は標高420mと言えども、この街が既に山間部(標高250m)にあるので高低差は大してない。山道を登り切って大手門に到着。眺望がいい。ここなら信州から南下してきた武田の軍勢をバッチリ監視できそう。向かいの山肌に民家がへばりつくように立っているのが見える。
勿論、再現した構築物ながら、城址と言うには立派な門構えと城壁を備えている。井楼櫓は3階建てくらいの高さがある。登ってみたいけど、あいにく鍵が掛かっていて叶わず。
<井楼櫓を大手門から、搦手門から眺める>
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永禄5年(1562年)から同9年(1566年)にかけて発生した、遠江国内の主に天竜川流域における複数の国衆による駿河今川氏への大規模な叛乱のことである。
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※出典:Wikipedia
ここが信濃と遠江の境で要衝の地なのは分かる。でも、今川・武田・家康など居並ぶ戦国武将が山に囲まれた水窪を敢えて守ったのは、令和の時代にピンと来ないのがホントのところ。
<薬研堀、モコモコした城郭>
堀切が続いており、V字谷の薬研堀やモコモコした丘状の防衛線が山頂部に広がっている。とても多くの兵員を抱えていたとは思えない。普段は下界に棲んでいて、偵察要員だけを交代で登らせていたのか。
<山城の柵、奥の森に入ってみた>
曲輪が3つ。その先に山道が続いていた。ピンクのテープに気を許して進む。
<珍しい苔、毒々しいキノコ>
苔や切り株があって眩しいエリアもあった。ただ、反対側の出口に出て「マムシに注意」の看板。こういうのはメインの登り口に書いておいて欲しいな。
<新緑、竹笹を上から撮る>
鉄筋コンクリート造りの天守閣とか草に覆われた更地になった城址は総じて感想が涌かない。それに対してここは大人のジャングルジムみたいで、往時を思い起こさせるパワーがあった。なので、わざわざ来るだけの価値はある。
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下山途中に、300名城を訪ねて大阪からここまで来られた年配の男性とお会いする。二俣城からこちらまで北上してきたとか。松平氏ゆかりの三河・大給城の話は疎くて理解できず。吉良と赤穂はともに塩の産地なので争いがあったとか初耳。確かに吉良の領地は蒲郡に近いな。イランとトルクメニスタンもかつて海底だったので塩湖があるとか。内陸部の会津で塩づくりしている事を振ってみたけど、そこはスルーされてしまった。
遠州の地名について盛んに「ひきさ」って喋っているけど何処だろう、と一瞬考えてしまった。確かにこれは読めないだろうな。パッと「引佐」だと気付いて良かった。それって「いなさですよ」と伝える。
ほかに、弘前城には天守閣がずっとなかったけどロシア警備を理由に幕府から建設を許されたなんてレアな話も伺った。