かつて大手町勤務だった事がある。通算するとおそらく10~15年近くは大手町の某ビルに通勤していた。取引先として通っていた期間も含めると23年くらいに亘るんじゃないか。顧客が大企業(かつ親会社)だったので、仕事には不自由しなかったけど、会社として業務に相応する実入りがあったのかはかなり微妙な所だ。IT業界ってサービス業で、サービス業はタダで働いてくれるって錯覚がまかり通っていたから不思議。いや、あまりに理不尽な世界だった。

 

まあ、大手町界隈は何かと恵まれた立地だった。ランチ時にはいつも大手町ビルの地下で店を物色していた。一番のお気に入りは玉乃光酒造で、季節を問わずカツオのたたきランチを食べられるのがありがたかった。ほかにも同ビル地下には、うなぎ屋・ての字、小岩井のスパゲティ屋、ライオンもあった。隣りのサンケイビルの呑み屋も塁や吉今などなんだかんだと通った。一番最後に見つけたのが大手町カンファレスセンター地下のレストラン・アサジ。ここは洋食屋さんで豚肉が美味しかった。

 

皇居はすぐ傍だったけど、あのムチャクチャ忙しい仕事中にとても皇居を散歩するような余裕はなかったな。なので、皇居の辺りを歩く機会はなかったし、ましてや皇居の桜も黄葉も記憶にない。

 

<黄葉(2)>  ※2022.11

 

 

11月中旬、和田倉門の辺りをぐるっと一周した。和田倉門はパレスホテルや昔の日本鋼管ビル、住友銀行東京本社、東京海上ビルに近い所。自分の記憶と現在の社名がどれも変わってしまったのはちと悲しい。以前は石垣の内側にオシャレなレストランがあったけど、いつの間にかStarbucksに入れ替わっていた。

 

<黄色い絨毯> ※2022.11 

 

暗めの写真になってしまったのでちょっと分かりにくいけど、左の石垣が段差を伴って大きくズレていた。地震の影響なのか、それとも松の根っこが石垣を穿つほどのパワーになったのだろうか。

 

<石垣がズレていた>

 

和田倉門をネットの文章で補足すると以下の通り。芝大門の辺りから海を臨めたのは浮世絵で見た事があるけど、江戸城もホントに海際の立地だったのか。


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和田倉門は現在、門跡として石垣のみが残されています。江戸時代は「蔵の御門」と呼ばれていた和田倉門は、一般人は通行できず、武士だけが通ることを許されていました。徳川氏が江戸城に入った頃、この辺りを蔵地としたので、この名称をとったそうです。
「和田倉」と呼ぶようになったのは、慶長12年頃からと言われており、名の由来は、海の名称「わた」からきたもの。日比谷の入り江がここに及び、その入江にのぞんで倉がならんでいたので、あわせてこの地を和田倉と呼ぶようになったそうです。
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※出典
https://fng.or.jp/koukyo/2016/02/29/post_149/
 

ここから徒歩1分、新丸ビルの5Fにある洋食屋に入ると厚みのあるポークジンジャーが美味しい。


<Omiyaのポークジンジャーは最高>