以前、姫街道について紹介した。磐田(見附)や浜松から浜名湖の北側を通って、本坂峠を越えて御油に抜けるルートだ。
姫街道はかつての東海道だった | cx0293のブログ(登山やカヤック、海外旅行など) (ameblo.jp)
浜名湖についてちょっと調べてみた。この項を4回シリーズで書いた後で、新居町の今切付近を歩いた旅を紹介したい。先ずは今切口について最近知った事を整理しておきたい。
江戸時代の東海道は浜松宿から豊橋(吉田宿)に掛けて太平洋に近い所を進んで行く。そうすると、どうしてもどこかで浜名湖を渡る必要がある。浜名湖は完全に閉じた湖(淡水湖)ではなく海と繋がった汽水湖だからだ。
その湖と海を繋ぐエリアが今切口である。その細い通路が、浜名湖と遠州灘(太平洋)の境目であり、両者を結ぶエリアとなっている。かつて浜名湖が淡水湖だった時代もあるけど、室町時代や江戸時代の地震・津波で浜名湖と海が繋がって汽水湖になったとか。そうなると舞阪宿から新居宿まで海路を使うしかない。
<今切口の西側の地図>
<浜名湖の全体図>
※上の地図は湖西市新居の海湖館で入手したパンフレットを拡大したものである。
ネットで検索してみると、淡水湖だったのも進化の途中経過であって、もっと昔(6000年前)は浜名湖そのものが内湾だったとか。それが天竜川が運んできた土砂の影響で次第に内湾が塞がれていき、湖になったのだと言う。
浜名湖そのものも、三ヶ日近くをカッコ書きで猪鼻湖と記したり、気賀の付近をカッコ書きで細江湖と表記している。庄内湖ってエリアもある。もしかしてそれぞれのエリアも単独の湖だった時期があるのかも知れない。新幹線や東海道線も通っている弁天島も成り立ちも考えてみたら謎が詰まっているのだろう。こうした事もいずれ調べてみたい。地形の変遷に関しては不勉強なので、あまり不確かな事も書けないのだ。
さて、こうした事は文章で細かく書くよりも以下サイトに掲載されている2つの図を見ると判りやすい。この地図を見ると、6000年前には浜松駅周辺も弁天島も陸地じゃなかったって事なのだ。これには焦った。
http://www.hamana.net/shounai/rekisi/mizuumi.htm
ただ、2020年年初のNHK「ブラタモリ」では以下3点を明確にしていた(と思う)。
・天竜川が土砂を下流に運び、西側の遠州灘に砂が堆積して砂州が伸びていった
・江戸時代の地震と津波で今切口が切れた
・汽水湖になったので、うなぎの生育に適している
ただ、上記サイトを読むと、今切口が開いたのは室町時代(1498年)の地震のようだ。江戸時代(1707年)には砂州の切れ目がより広がったのだろう、渡船距離が6kmに伸びたと書かれている。できれば、もうちょっとその辺を正確に知りたいな、と思い始めた。