JR大津駅からやや東側にある渡来人歴史館に立ち寄った。今回は近江で知った事を書いておく。
<大津のマンホール、渡来人歴史館>
関東だと埼玉だ。西武線・高麗駅前の将軍標はユニークなもので、飯能市や日高市に渡来人が固まって住んでいたと聞く。小川町でもいろいろな情報も得ているけど、まだ書けていない。新座市も新羅ゆかりの土地らしいし、他にも深大寺(東京)、多胡碑(群馬)、高麗山(神奈川)など気になっている場所がいろいろある。
※参考ブログ
(1)渡来人歴史館
【古代】
近江国には、倭漢(やまとあや)氏と秦氏が定住していた。
倭漢: 百済と伽耶、坂上田村麻呂、三津首
秦 : 土木工事
鬼室神社(日野)は百済にゆかりの神社であり、渡来人がやってきたタイミングは4回。
・弥生時代
・5世紀
・5~6世紀
・白村江の戦い
任那に鉄とそのツールがあり、百済から倭に対して出兵のリクエストがあった。
氏族と役割で名前になっていたとか。地名について、関東では高麗=「こま」で狛江(東京)や巨摩(山梨)がある。西日本にも上狛(京都)、巨摩や高市(奈良)、小松(=高麗津、石川)、高来(長崎)がある。また、服部も渡来人にゆかりがある姓とか。
【江戸時代】
鎖国でオランダ以外とは往来がなかったと思っていたのだが、朝鮮通信使の交流あり。文禄・慶長の捕虜となっていた400人を取り戻すのが、当初の役割だった。近江国だと、野洲~彦根~朝鮮人街道のルートを通っていた。
安土では朝鮮人街道の碑があり、詳細は次回「安土城址」ブログで紹介する予定。
【近代】
戦争で、朝鮮人200万人が日本に来ており、日本人70万人が朝鮮半島で終戦を迎えた。北の30万人はシベリア抑留され、南の40万人は帰国できた。
【まとめ】
分かりやすい展示だった。自分の知らないことが殆どだったので有意義。ただ、渡来人が今で言うところの中国人もいたのか、それとも朝鮮人に限られていたのかハッキリしなかった。
(2)蛇谷ヶ峰
山行については先日のブログで紹介したので、ここでは前後のショットを3枚のみ。
<JR安曇川駅、入浴セット乗車券、下山してから鯖寿司>
歴史つながりで「安曇」について触れておく。この字は長野県安曇野市と同じように「あずみ」と読むものだと思い込んでいたが、近江では「あど」。ネット検索してみたが古代史に疎いので深入りはできない。
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『比良(ひら)』『比叡(ひえ)』『日枝(ひえ)』『安曇川(あどがわ・あづみ)』『小野(おの)』『和邇(わに)』『志賀(しが・しか)』など、いにしえの言葉が多く残っています。もともと、日本語は漢字ではなく、言葉の読みに中国からの漢字を当てはめたものが多かったとことです。
安曇の地名とその由来
「安曇」にはさまざまな表記があります:安曇、阿曇、阿積、安積、安津見(あつみ、あづみ、あど)、熱海、厚海、厚見、渥美、(出)泉、飽海(あたみ、あつみ)。
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※出典
https://sunrise2050.com/2024/10/10/19626/
(3)マキノ界隈で
JR湖西線にマキノ駅がある。かつて赤坂山に登った時にもこの駅を利用している。今回ここで、何故カタカナの地名なのか聞いてみた。答えはこんな感じだった。
「元々スキー場をシャレた名前にしようとして、進駐軍など外国人をターゲットにカタカナの『マキノ』にした。その後、駅周辺にもこの呼称を使うようになった」
「おばあちゃんの言い伝えで『山の上から渡来人が手を振っていた』と聞かされてきた。鯖街道とは別ルート」
渡来人が稜線を歩いていたのは一体いつの話だろうか。もしかしてそんな逸話が1000年くらいの長きに渡って語り継がれてきたのかも知れない。
確かに、玄界灘と同じく若狭湾も渡来人にとっては上陸しやすいポイントだったのだろう。NHK大河ドラマ「光る君へ」でも渡来人が若狭国に入り交易を求めていた。
【註】実は2026年になって、雪の青葉山登山に合わせて若狭国の小浜と熊川を歩いてみた。遠敷も気になったが、時間の関係でスルーしている。詳細はまた改めて。
<マキノで一泊した湖畔の早朝(2)>
<朝食後の風景(4)>
さて、次は琵琶湖を半周して安土へ行く。











