後亀山天皇陵 晩夏 | cvq243のブログ

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            (えんらいや なんぼくちょうの えせこうわ)

 

 

         小倉山の見える参道    

 

   後亀山天皇の小倉殿跡の後方に、

 

   嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)があります。

 

 

    参道脇を車で上がれます      

 

   南北朝合一は、後亀山天皇が後小松天皇に

 

   三種の神器を伝えた事により実現します。

 

   南北朝時代は、建武3年、延元元年(1337年)〜明徳3年、元中9年(1392年)です。

 

   

    嵯峨小倉陵     

 

 

                

 

 

                 

 

   亀の字が旧字体ですが、亀山天皇陵もそうだったように

 

   旧字体が正式名称です。

 

   

                 

 

   足利義満により講和条件の両統迭立が破られ、

 

   応永19年(1412年)後小松天皇の皇子、称光天皇が践祚します。

 

   後亀山天皇としては国内の和平を願い、講和条件に従ったのに、

 

   忸怩たる思いだった事でしょう。

 

   応永31年(1424年)雷鳴の轟く夜、大覚寺で崩御されました。

 

 

                  

 

   桃山陵墓監区事務所の管理小屋です。

 

 

                  

 

   神明鳥居の奥に五輪塔があります。

 

   後亀山法皇の法名は「金剛心」です。

 

   出家されているので、陵墓は墳丘ではなく五輪塔です。

 

 

                    

 

   陵墓の周りは管理上、小道があります。

 

 

                    

 

 

        陵墓は小倉山の山裾にあります    

 

 

                 

 

   五輪塔の四方に、宝篋印塔と五輪塔が法皇を護るようにあります。   

 

 

              

 

   天皇家・公家・寺社の国衙領(公領)や荘園が、

 

   鎌倉時代から守護、地頭により蚕食され始めます。

 

   さらに彼らは、管理を任されていた立場から、実質的な領主になり、

 

   守護大名として力をつけていきます。

 

   その後応仁の乱や、戦国時代と続き、

 

   後亀山天皇の願った平和は、まだまだ先になりますね。