(えんらいや なんぼくちょうの えせこうわ)
後亀山天皇の小倉殿跡の後方に、
嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)があります。
南北朝合一は、後亀山天皇が後小松天皇に
三種の神器を伝えた事により実現します。
南北朝時代は、建武3年、延元元年(1337年)〜明徳3年、元中9年(1392年)です。
亀の字が旧字体ですが、亀山天皇陵もそうだったように
旧字体が正式名称です。
足利義満により講和条件の両統迭立が破られ、
応永19年(1412年)後小松天皇の皇子、称光天皇が践祚します。
後亀山天皇としては国内の和平を願い、講和条件に従ったのに、
忸怩たる思いだった事でしょう。
応永31年(1424年)雷鳴の轟く夜、大覚寺で崩御されました。
桃山陵墓監区事務所の管理小屋です。
神明鳥居の奥に五輪塔があります。
後亀山法皇の法名は「金剛心」です。
出家されているので、陵墓は墳丘ではなく五輪塔です。
陵墓の周りは管理上、小道があります。
五輪塔の四方に、宝篋印塔と五輪塔が法皇を護るようにあります。
天皇家・公家・寺社の国衙領(公領)や荘園が、
鎌倉時代から守護、地頭により蚕食され始めます。
さらに彼らは、管理を任されていた立場から、実質的な領主になり、
守護大名として力をつけていきます。
その後応仁の乱や、戦国時代と続き、
後亀山天皇の願った平和は、まだまだ先になりますね。