日頃、キャリアコンサルティングの勉強会をしていたり、
試験対策などにおいても、さらには先生方からの指導内容等にも、
「問題の本質を把握しましょう」
という言葉を耳にすることがあります。
この言葉、どのような業界にいても、かなりの確率で出会いますよね。
かくいう私も使うことがあります。
「本質」というキーワード、
いかにも重要そうで、深い理解を促しているようにも聞こえます。
少し立ち止まって考えてみると、
この表現は驚くほど曖昧で、
そして使い方によってはとても危うい言葉でもあると感じています。
これは大学院のゼミで指摘いただいたことでもあります。
「本質」とは何かが明示されないまま使われることが多い。
そもそも何をもって本質とするのか、
それは誰にとっての本質なのか、
どの文脈での本質なのか。
なにも前提が共有されないまま、
「本質を捉えること」が求められるとき、
学習者は何を手がかりに思考すればよいのか分からなくなります。
結果として「深く考えなさい」というようなメッセージだけが残り、
具体的な行動や視点には結びつかないまま終わってしまうことも少なくありません。
特に対人支援の文脈においては、
この曖昧さはより深刻だと思います。
相談者や事例相談者が語る内容には、
その人なりの意味があり、背景があり、
また関係性の中で立ち上がってくる文脈があります。
その中で「本質」という言葉を安易に持ち出すと、
あたかも、唯一の正解、本質はここだ!
と言わんばかりに、どこかに答えが存在していて、
それを見抜けるかどうか、
これが支援者の力量であるかのような前提が形成されます。
これは支援の質を見誤らせる、危うい勘違いを生みます。
実際には、問題の捉え方そのものが、
対話の中で形づくられていくものではないでしょうか。
むしろ「本質を把握する」という言葉が使われるとき、
その背景にある思考のプロセスが省略されていることに違和感を覚えます。
本来であれば、
「何を重要だと感じたのか」
「どの語りに引っかかったのか」
「どの文脈でその問題を捉えたのか」
といった具体的な視点が丁寧に言語化されることが必要ではないでしょうか。
それらを飛び越えて「本質」という言葉に収束させてしまうと、
理解したつもりだけが残りやすくなるように思うのです。
この表現、指導の場面や、さらにはそれなりの立場の先生が発する場合、
ある種の権威性を帯びることもあります。
「本質を見抜けている側」
「まだ見抜けていない側」
という構図が無意識に生まれ、学習者は指導者の意図する正解を探そうとしてしまう。
この過程で失われてしまうのは、
学習者自身の視点や違和感であり、
対話から立ち上がる多様な意味の可能性などです。
「深く理解すること」や「表層にとどまらないこと」
この重要性を否定するつもりはありません。
しかしながら、そのことを伝えるために
「本質」という言葉に頼る必要があるのかどうか。
改めて問い直してみてもよいのではないかと思います。
「この人にとって一番困っていることは何だろうか」
「その語りが発せられている背景には何があるのだろうか」
「自分はどこに注目し、何を見落としている可能性があるのだろうか」
といった問いの方が、まだ具体的で、思考を動かします。
こうした問いを重ねていくプロセスそのものが、
いわゆる本質に迫る営みなのだとすれば、
「本質」という言葉は結果ではなく、
過程の中にあるものとして捉えた方が自然かもしれません。
大切なのは「分かった」と言い切ることではなく、
「まだ分かりきっていない」
という前提に立ち続けることだと感じています。
「本質」という言葉が、
その謙虚さを失わせる方向に働くのであれば、
一度その使い方を見直してみる価値はあるのかもしれません。
例えば、1級の試験であれば、公式HPに、
『採点官・試験官が観た受検者の傾向』に
「本質を把握していない」と書かれていたとき、
それをそのまま(私は本質を捉えられていないのか)と受け取ってしまうことがある。
仮にそうだとしたら、それは実にもったいないことだと思います。
「問題の本質を把握する」
という表現に、違和感を覚え続けられること。
これ自体が、表層的な理解にとどまらないための、
大切な自分の出発点なのかもしれません。