昨日は九州大学の伊都キャンパスに用事があり向かいました。
ちょうどお昼前くらいに到着し、車入庫の許可No.49という紙をいただきました。
九州大学の伊都キャンパスは、
全国で最大単一キャンパスとも言われ、東と西と中央にゾーンが分かれています。
私はイースト側に行くため、
こちらの駐車場の中で部外者としては49台目の車となるのでしょう。
しかし、駐車場はどこも満車状態だったので、
空いている場所を探すのに一苦労でした。
場所柄、恐らく職員の方や先生、そして関係者、
さらには学生さんも車で行き来している方が多いのかもしれません。
ようやく停める場所を見つけて館内へ。
私が車を停めた一番近くに位置していたのがたまたまこの図書館。
とても綺麗で、時間に余裕もあったため立ち寄らせていただきました。
こんなに立派な図書館が日常の生活圏にあったら、
足しげく通ってしまいそうです^ ^
さて、ブログ記事のタイトルについて書きます。
現在、修士論文の執筆にあたり、
ある記述データと向き合う中で、私自身のその時々における諸々の変化、
温度感等の揺らぎがあり、
ある時はこう認識したり感じたりするけれど、
またある時はそれと異なる感性等が発動したりもする。
こうしたブレとか、揺らぎのようなものを、
分析の中において排除するべきだと考えることもあるかと思います。
1級キャリアコンサルティング技能検定の実技試験などでも、
例えば、論述事例問題に向き合ったとき、
ご自身の中で着眼点や概念化の深さなどが変化する場面もあるはずです。
以前はそうでもなかったのに、同じことをしていてもなぜか浅く感じたり、
また思いもしないところに注意が向いたりして、
ご自身の認識が変化することがあるはずです。
このような泥臭い体験を自己の中で感じられるのは、
自分がその対象に対して誠実かつ純粋に向き合っているからこそ立ち上がってくる意味のあるものとして認識できるといいのですが、
意外と、そうした粒が揃っていないような不確かなものに関して不安が生じ、
そして何かを揃えるために、
例えば、生成AI等に処理させていくということもあるのだと感じます。
もちろん、生成AIの利用をネガティブに表現している訳ではありませんが、
自分なりに言葉を探す泥臭い時間こそが、意味生成の核ともなるのだと実感しています。
これはなんでも言えることではないでしょうか。
特に、1級で言えば、論述問題でも面接でも口頭試問でも。
大変な道のりでも、面倒で手間のかかる時間を要する作業でも、
温度感の揺らぎやノイズ的なものを排除せず、
そのエラー的なもの自体も宝物であると、
そんな取り組みを大事にしていたいものです。
今週末、土曜日は福岡会場の講座で、
そして日曜日は、JCCオンライン講座で、
皆様とご一緒に学べることを心から楽しみにしています。

