昨夜、東京から福岡に戻り、
今朝一番の飛行機で再び羽田空港にやってきました。
個人的なことで恐縮ですが、
仕事内容によって荷物の中身が全く異なることもあり、
23日からの東京ではビジネス系リュックサックひとつで十分でした。
一方、本日26日からの横浜出張では、資料等は勿論、ワイシャツやスラックス、
そしてシューズなど、様々な着替えを用意しておく必要があります。
このような事情から、荷物の完全入れ替えが必要であること、
そして何よりも一度でも自宅に帰って床に就く安らぎ、
体力の補充・休息のひとときを得ることは、私にとって欠かせないポイントです。
客観的にみれば不効率と思われるスケジュールかもしれませんが、
意味のある選択が散りばめられた動きとなっています^ ^
さて、お話が少し飛びますが、
昨日、都内でいくつか荷物を持って電車に乗っていたところ、
若い外国人カップルから声をかけられ、座席を譲っていただくという出来事がありました。
私は一瞬キョトンとしてしまいましたが、
サングラスをかけた彼の方が、空けた席に何度も手を差し伸べてくれるので、
そのご厚意に甘えて座ることにしました。
実は、電車で他人から席を譲られるのは今回が初めてで、
私にとってはまさにデビューでした。
その思いやりを受け取る立場になったことに、
少々自分自身の見え方が気になったのと同時に、
こうしたことを国内で外国人の方からいただけるとは…と、
なんとも興味深いリアル体験となりました。
この出来事をきっかけに、改めて考えたことがあります。
私が大学院で準備している研究テーマは、
「キャリア形成支援者が持つ共感性の自己評価と他者評価のズレが、支援の質にどう影響するか」
といったものです。
ですが、
そもそも共感とは、言葉や定義ではなく行動であり、
社会文化的背景によってその表れ方が異なるのだということを、
今回の体験から強く感じました。
例えば、電車での席の譲り方ひとつをとっても、文化的な違いが行動に現れます。
ある国では、重たい扉を開けた人が後続の人を先に通し、
笑顔で扉を支え続ける光景が日常的に見られます。
忙しい国であっても、そうした行動が自然に行われているのです。
一方、日本では、扉を開けた人が先に通り後続の人は自分で扉を支えるのが一般的です。
もちろん、後ろの人に気を遣って押さえている方もいますが、
継続的にそれを行う人は少ないように思います。
こうした違いは、共感性の高さや行動の善し悪しとは別の次元で、
文化的な背景や日常の習慣に根ざしているものなのでしょう。
そして、私たちキャリアコンサルタントが意識している「共感的理解」は、
もしかすると日本的な支援者としての役割に限定された理解であり、
日常のあらゆる行動にまで共感が浸透していない可能性もあるのではないかと考えています。
つまり共感という言葉の意味やその表現についても、
学習のあり方が偏っているのかもしれません。
対面支援において、共感が簡単にいかないのは、
それが「普通のこと」の水準ではないという側面に注意が向すぎているのかも。
共感という表現が本物であり、
それがクライエントに届いていることが重要で、
さらに、届いた共感をクライエントがどう感じているのかをわかろうとする姿勢、
これもまたさらに重要です。
こうした営みは、相互に行き来しながら、
重層的で無限の広がりを持つものなのだと、改めて感じています。
そして、昨日の電車での一コマ。
見知らぬ若い外国人カップルが、私に席を譲ってくれたあの瞬間にも、
まさにその「届く共感」があったように思います。
言葉を交わすことなく、状況を察し、行動に移してくれたその自然な優しさは、
文化的背景の違いを超えて、心にしっかりと届きました。
共感とは、こうして日常の中に静かに息づいているものであり、
支援の場だけでなく、社会のあらゆる場面で育まれていくものなのかもしれません。