明日から8月がスタートしますね。
いかがお過ごしでしょうか?
さて、突然ですが…
ひと昔前、スマートフォンなどなかった時代、
バイクや車でどこかへ出かける際、わからない地域だったりすれば、
前もって紙の地図を眺め、大まかなルートを頭に描きながら走り出すというスタイルが当たり前でしたね。
これはプロフェッショナルの運送業者さんやタクシーの運転手さんも同じかと思います。
目的地にきちんと辿り着けるかどうかは走ってみないとわからず、
道を間違えたり、思いがけない景色に出会ったりしながら、
身体と感覚をフルに使って進んでいくこと自体が、旅や移動等の醍醐味だったように思います。
言わずもがなですが。。。
今では、例えばスマートフォンのナビがなければ不安を感じてしまったり、
肝心の目的地にたどり着ける気がしない…そんな感覚に陥ることも少なくありません。
勿論、それは決して悪いことではないように思います。
現代は便利な道具があるのですから、それを活用するのは自然な流れ。
ただ、あまりに頼りすぎる、依存していくことで、
私たちの中でかつて確かに機能していた「感じ取る力」や「自分で判断する力」が鈍くなってはいないか、
という問いを改めて立ててみたいと思ったのです。
キャリアコンサルタントという専門性を担う私たちも、
目の前のクライエントの語りに向き合い、内側で何が起きているのかを感じ、
どう言葉をかけるかを選び取るという「感覚」に基づく営みを大切にしているはずです。
一方、近年、この専門性の中にも、便利なツールが次々と入り込んでいますよね。
一例ですが、このブログでも話題にしたことのある逐語記録をアプリやAIで自動生成できるソフトの登場。
また、論述問題への解答をAIに作成させたり、
あるいは模範的なパターンをあらかじめ生成しておいて、それをなぞるように使うといった場面が増えてきました。
それが「効率化」であり「時代の流れ」であることは重々承知しています。
ただ、それがもし、自分自身の体験や感覚を通さずに、
「とりあえず形にする」ための手段となっているとしたら、
専門職としての感度や判断力は、少しずつ鈍ってしまうのではないかと危惧します。
逐語記録を書くという行為は、単に発言を文字に起こすだけの作業ではありません。
何を記録するか、どの瞬間にどんな意味を見出すか、
自分の内的な反応にどのように気づくかという、極めて主観的で感性的な作業です。
それを「音声さえあれば自動で記録される」ことで済ませてしまえば、感覚の筋力は鍛えられません。
また、論述試験に向けてAIに問いを投げて「正解らしきもの」を得たとしても、
それは「AIにとっての最適解」であって、自分自身がどう考えるか、どこで迷い、
何を大事にしたいかといった葛藤には触れずに済んでしまいます。
つまり、本来であれば手間をかけながら自分の感覚を研ぎ澄ませ、少しずつ確かめていくべきプロセスを、
あたかもスマホのナビに任せるように、外部の正解や便利な情報に頼ってしまう。
これが続くと、最初は補助的に使っていたはずのツールが、
いつの間にか「自分の判断の代わり」になってしまうかもしれません。
これは、支援の現場においても同じです。
目の前のクライエントと向き合う時、その場の雰囲気や相手の語り口、
ちょっとした沈黙の意味などは、経験や理論だけでは説明できない「感覚」によって捉えられるものです。
AIやツールには絶対に触れることのできない領域です。
その感覚は、自分で考え、自分で迷い、自分の言葉で何かを綴るといった
「手間のかかる」経験を積み重ねることでしか磨かれません。
効率化が進みすぎると、その過程が失われてしまいます。
私たちは、自分の足で地図を見ながら走ることの価値を、かつて知っていました。
電話番号を覚えることも当然でした。
多少の遠回りや道の間違いも含めて、そこにこそ本質があったはずです。
キャリア形成支援の学びや実践もそれと同じように、
効率化とは異なるリズムの中でこそ深まるものだと思います。
情報や便利なツールをすべて手放す必要はないと思いますが、
自分の感覚を「預けすぎていないか」と立ち止まって問い直すことは、
専門職としてのあり方を見つめ直す大切な機会になるはずです。
手間をかけることは、時に回り道のように思えるかもしれません。
しかし、その回り道自体に意味を見出すことができるのだと感じます。
その手間の中にしか見えてこない風景や、自分にしか気づけない違和感が、
専門家の専門性を支えてくれているのだと思うのです。
ひとりの人として、自分の感覚を信じ、時間をかけて進んでいく姿勢を、
今一度取り戻していきたいと感じています。
以前できていた頃のように、方向感覚を信じて歩み出す。
そんな原点を思い出すことから、
もう一度はじめてみることもいいのかもしれませんね。