1級キャリアコンサルティング技能検定試験対策の講座プログラムや、
事例指導またはスーパービジョンの実際を行いながら、
受講者様と一緒に多様な学びを重ねてきています。
たとえば、スーパービジョンにおいては、
実践家として現場に立つキャリアコンサルタントの方から、
キャリア面談についての具体的な相談を受けることがありますが、
その人にとってうまくいかなかった面談をめぐる葛藤や、
専門家としての自信の揺らぎ、
無力感や失望といった言葉がこぼれてくることもあります。
その人の経験等にある奥行きに触れさせてもらおうと、
そんな気持ちで心や考えを傾け寄せていく。
なにか答えを出すわけではなく、
その人の目の前で、ある意味、無心にもなろうとします。
「理解しようと努めてみる」という意識が大切、
いや…「理解したい」と思えることが大切なのだ、
このように自身に言い聞かせていたこともあります。
一方、こうした事例指導者としてのありかたを言葉にすると勘違いされることもあります。
「理解しなければならない」「わからなければならない」という認識です。
たとえば、講座の中で「理解しようとする」と言葉にしてみたとき、
それをきき、受けた人が「理解しなければ」と認識することがあるのです。
これは「理解しようとする」「理解したい」とはまるで意味が違うものになります。
目の前にいるその人を理解しようとすること、あるいは理解したいと願うこと。
それは、あくまでその人への気持ちや考えのありようであり、
義務や知的な操作では測れないものだと感じます。
理解しなければ、わからなければ、という思考が前面に出ると、
それはいつの間にか、目の前の人から離れてしまっています。
置き去りにしているのです。
1級キャリアコンサルティング技能検定実技(論述・面接)試験でも、
そのようなシーンがあると想像しています。
事例指導者という立場にあると、
どうしても相手の未熟さやつまずきの原因を探っていることがあります。
このようなまなざしで事例相談者をみている瞬間に、
そのキャリアコンサルタントの成長への期待や、今ここで抱えている思いが、
置き去りにされていくように感じるのです。
事例相談者がなにかを体験しどこかで立ち止まっている感じを、
その人の視点から味わってみようとそばにいてみることは、
「分析する」「解明する」「評価する」「指摘する」ことと異なる関わりです。
お話が少しそれますが、
時々、「心」をメカニズム・構造として語ることに対して、
違和感や否定的な意見を持つ人も増えてきたように思います。
それはそれで興味深いことだと考えているのですが、
皮肉なことに、そのメカニズムという語りそのものを批判的に考えたり、
それを否定するとき、その人はまた別のかたちで心のしくみを語り始めているようにも感じるのです。
いつの間にか相手の心や考えについて、何がどう働くのか、なぜそうなるのか、
誰にでも感情や思考の仕組みを説明したい気持ちが多少なりとも出てくるのかもしれません。
ただ、その説明をしたいというような欲求が、
目の前の人を「理解してみたい」というところから遠ざかってしまうこともあります。
わからないまま、わかりたいと真におもえること。
寄り添おうとする形よりも、
人が抱く想いや考えの奥行きに寄せてみるということ。
※「寄り添う」という言葉が神聖化されていることも多い。
問題解決の手がかりがなんであるかなどを考えることもなく、
目の前の人と向き合うということの豊かさが事例指導の本質になるのだと考えています。
事例相談者自身が、自分の支援を言葉に語ることで、
またそれを受け、聴くことのできる事例指導者がいるからこそ、
そこでの言葉をきっかけにしたプロフェッショナルな相互作用が得られるのだと思います。