人は色々なことに挑戦したり、夢中になっている時があります。
生涯かけてひとつのことだけに没頭することもあるかもしれません。
一方で、特段何もしていない、
何かをしたいと思えないということもあると思います。
個々でその時々様々でありそれぞれ多様です。
様々な人から外的な刺激を受け、
大なり小なり自分自身と比較してみることもあるでしょう。
生まれた瞬間から私たちはそうした環境下で生きていくことになります。
キャリア形成支援を通じ、
そのひと自身がどこをみて生きているのか、何を生きているのか、
それぞれ物事の見え方はまるで異なるのだと実感します。
これがキャリアコンサルタントの一つの重要な学びといっても過言ではないのかもしれません。
この時代、
例えば大学教授がオオカミ(ウルフ)ヘアーにして髪をシルバーに染めていても、
紫や朱色に染めても誰も何も言わない、
もしかしたらそれをみて格好いいという人もいたり、
クリエイティブさを感じたりすることもあるかもしれない。
誰かがアニメやYouTuberアイドルにどっぷりハマろうと、
「それはそれでいいんじゃない」という時代。
子どもから大人まで、
その事柄への対応のあり方、周いの対応も多様に変化している時代です。
受け容れているのかどうかはわかりませんが、
ちょっとしたことでは驚くことも少なくなっているのかもしれません。
まさに、生きる時代が異なるだけで、
社会における常識的な認識や価値観がだいぶ異なるところもあります。
徐々にある意味での多様性?が認められているのかもしれません。
もちろん、
他者に認められること自体を嫌う人もいるでしょう。
また、あまり本質的なところを深く考えずに、
個性が大事だという人もいると感じます。
個の尊厳を尊重する。
個性を豊かに育む。
何も隠すこともなくオープンに発信していく時代でもある。
だからこそ…
「自分はそこまでできない」
「特に何もしていない」
「特に長所など見当たらない」
「自分にはこれといって何もない」
という思考や感情を生みやすい時代、そうした環境であるともいえます。
相談者(クライエント)から教えていただくことがあります。
(自分はそこまで特別なことができません。
何もしてこなかった…。
特に憧れている人ややりたいことはありません。)
こうつぶやく人を目の前にしたとき、
いま私にそれをわざわざ語る人の心境、
それは一体どんなものなのだろうか…と考えさせられます。
もしかしたらその人の周いには、
野球がうまくてプロになった人がいるのかもしれない、
歌がうまくて、演技がうまくて、芸能界に進んだ人がいるのかも、
頭の回転が早くて、何をやっても成績が良く、
大手企業で大活躍している人がたくさんいたのかも、
話しが上手で多様な仲間と斬新なアイデアを生かし事業を開拓している人がいるのかも、
自然が好きで無人島に行って伸び伸びと暮らしている人がいるのかも。。。
こんなふうに、その人には、
周いに何か個性豊かな人たちがたくさんいて、
いつもどこかで劣等感を覚えながら生きてきたのかもしれない、
いやいや、
実はそういう人たちをみているのが嫌で、
異なる道(あえてなんにもしない)を選んでいるのかもしれない、
何はともあれ、
目の前の人が何かを語るということは、
実はそこにその人なりの意義深い物語が隠れているというか、
許されれば、もっともっと深い何かを語ってくれようとしているのかもしれない。
自分は何もない、特に何もしてこなかった、
自慢できる能力はない等々。
このように語ってくれるということは、
比較しているわけでも、
投げやりになっているわけでもない…
と感じることがあります。
しかし…
これを表面的にしか捉えないキャリアコンサルタントがいたとするならば、
(何もない、特に何もしてこなかった)
(自慢できる能力はない)
という情報をそのまま「そうなんだ」と認識するのかもしれません…苦笑
事例指導においても同じことがいえます。
事例相談者が発していることを(そうなんだ)ときくだけ。
それでは単なる情報のやり取りにしかなっていません。
お話しは戻りますが、
自分には何もない、何もしてこなかった、
これらはその語る人が、ある側面からみたときの錯覚なのかもしれません。
そして、
その錯覚自体を自身で信じたくもないその人がいるということもあり得るわけです。
どうしてか。
目の前でそれをその人が語っているからです。
キャリアコンサルタントを生きると意識してから、
人の話を聞いて、ついわかったつもりになることは多かった。
特に初学者のころはそうでした。
(ああ…この人は思い込んでしまっているな)
(ああ…この人はある側面でしか物事を見ていないな)
などと、キャリアコンサルタント視点での問題を正しい見立てと信じ、
自分の感覚でひとの話しをわかったように処理していただけの頃。
そこに気づかせるような働きかけを磨こうとしていた時期がありました。
私は目の前の人と話しをする時、
その人と真の話しをしていないことに気づいたことがありました。
つまり私はその人(目の前の人)をわかろうとはしていなかったのだということ。
わかるためには話しを聴かなければわかりません。
たとえば、
その人自身がやってきたことや力を入れたこと、
両親から何を言われたとか、上司から何か言われて困っているだとか、
会社から異動を命ぜられたとか、同僚と比べて出世テンポが遅いだとか、
そうした情報を知ったところで、
その事柄や事象以外、
なにひとつわかることはできないと考えます。
これでは情報収集して聞き手側(私)の枠組みで処理しているだけであり、
対話をしていることにはならない。
その人(相談者)が体験していること、
そこに抱く情緒や思考には必ずそこに至る経緯などがあります。
その人の独自のルートです。
その人なりの過程を語ってもらうことが、
その人が個別に抱いている意味だったり、
大切な意義深さだったりするのではないかと思います。
その人にとっての両親というワードだって、
私の両親とは意味合いも異なるかもしれません。
何でもそうです。
物事に対して伴う経験、そしてその意味、
そこに感じること、考えることや対する行動、
全てがその人固有のものです。
それは必ず背景に物語があるはず。
だからこそそれがオンリーワンであり、
ひとつの語りとなるのだと考えます。
どんなに同じ格好(例えば制服)をしていたとしても、
一人ひとり同じ世界にいるわけではありません。
学生の時もそうだったのではないでしょうか。
外からみると単に学生の制服の集まりにしかみえなくても、
一人ひとり自分は違うと思っている人がそこに集まっていて、
決して大多数の中のひとつではない。
1級キャリアコンサルティング技能検定の実技(論述・面接)試験においても、
ケースを読んだり、事例相談者と話し合ったりする過程において、
物事を表面的にみて錯覚を引き起こしてしまうことのないように心がけたいものです。
事例相談者は今ここにいる一人のキャリアコンサルタントなのですから、
事例指導者が自分のことばかり考えていたら、
大事なものを見失うのではないかと思います。
これはたとえ試験でも一緒です。
3月29日のイベントではそんなところを観察してほしいと思っています。