時折出会う表現のひとつに、
(筆者は到底語ることのできる器にない)
といった類の言葉を書籍などに残しているものがあります。
私は少しこうしたことの捉え方が捻くれているところがあるのかもしれません。
謙遜と傲慢さの微妙なバランスが、
違和感みたいなものとして緩やかに崩れていきます。
こうしたちょっと偏屈な視点での洞察をこの記事で共有できたらと考え書きます。
特に業界の中で存在感のある方、威厳のある方、
少なくともどこかでは十分に語っているような著名な方が、
ある書物で一言「私は語る器にない」という表現をする。
なぜだろう…
とこの表現に出会うたびに背景を色々と考えてみます。
心理職としての倫理観等に通ずる表現になるのか、
謙遜の美徳であるのか、
社会調和などに向けた肯定的な表現として効果を考えているのか、
なぜか私は純粋に「語る器にない」と考えられているとは感じられないことがあります。
ある方からこんなことを言われたことがあります。
「書いちゃだめだよ。」
メディアがなんであれ、
果たして書いちゃダメと言われるような内容であるのか、
実はよくわかっていただけていないことがあとでわかったものです。
だからこそその場においてある意味軽々と
「書いちゃダメ」とメッセージされたのでしょう。
よく話をしないまま歪曲して捉えられていることもあるのでしょう。
それはそれとして…
私たちは他者の理解を試みる者として、
言葉に表現していくことの重要性を常に考えているはずです。
勿論、その大前提に職業倫理観と規範や道徳を遵守し、
言葉にしていくことの繊細さと慎重さと大切さを理解し続けていくことが絶対です。
お話しは戻り、
謙遜の背景には余裕があるということも考えます。
「私は語る器がない」と語っているとき。
人によってどうもしっくりこないこともあるのだと考えます。
実は、経験や知識がある水準であるにもかかわらず、その自覚もあるにもかかわらず、
あえて語らないとすることは傲慢であるということにもなるのかもしれません。
実際の現場では、
謙遜と自己主張のバランスをどのように取る必要があるのか、
言葉の紡ぎ方を工夫しながら書くこと、言葉にすることが必要なのだと信じています。
今の自身が抱く感情や考え、
その知識や経験を共有していこうと必死に文字や言葉にすることの大切さは、
様々な狭間の中で葛藤することも多々あります。
どのように振る舞っていくべきなのか、真剣に考えます。
他者のキャリアを側面的に支援していく心理職のひとりとして、
実践力向上等のためにもメッセージすることの重要性を感じているのは私だけではないと思います。
少なくとも語らない態度よりは、
語ることが社会に必要な態度であるとも考えています。
この記事を通し読者の方へ新たな視点を共有できれば幸いです。