昨夜オンラインで1級キャリアコンサルティング技能検定試験対策講座を開催いたしました。

27名の受講者様に参加いただき、

事例指導の実技実践の基本的な構造を中心にした論述各問の考え方を解説しています。

 

5グループに分かれ2度ワーク(考え方や感じ方の共有)を行なっていただき、

各グループの状況等を少しずつ観察しています。

 

大切なことは、講師が発しているメッセージ等(刺激)の受け方が、

お一人おひとりで異なることだと実感します。

どのように感じていらっしゃるか、何を考えていらっしゃるのか、

これはその瞬間瞬間で皆異なりダイナミックに変化します。

 

(講師が、論述問1では事例指導者の視点など要らないと言っていた…)

(講師が、事例相談者のことを褒めた方がいいと言っていた…)

 

(そんなことを講師は言っていなかった…)

(その認識は違うのではないか?)

(その考え方でいいと思う、講師はそのように言っているのではないだろうか)

 

このような会話を観察していても、

本当にそれぞれの話しの捉え方等の異なりに驚くことも多く、

私自身も学びとして深めていますし、また反省もします。

 

見方を変えれば、

講師の私が発しているメッセージの要点が幅広過ぎて、つかみどころが難しく、

ひとつの捉え方、考え方に定まらない、落ち着かないという証でもあると思います。

つまり非常にわかりにくいのだ…ということ。

 

少し話しはそれますが。。。

 

私が今ある先生に指導いただきながら四苦八苦していることのひとつに、

「物事等をわかったようになることの危うさ」があります。

 

そもそも、ひとの支援に携わるものとして、

キャリア形成や、キャリアを扱う専門家同士で行われるセッション自体、

わかりやすいなんてことはありません。

 

キャリア形成支援の訓練でも、事例指導の訓練でも、ここが大切なところでもあり、

自分で考え貫くこと、継続していくこと、

ある意味、見えないような学びへの不快感を味わっていくことも、

この諸活動等の醍醐味でもあり、まただからこその学びとなるのだと教えられます。

 

現場でもわからないことだらけ。

解決しようにもし得ない、

それはわたしたちが何かをわかったように振る舞うから、

物事を解決をしようとするからなのかもしれません。

 

この諸活動の深さと面白み、

こうしたところにもあるのだと考えることができます。

 

お話しは戻り、

試験での考え方や捉え方等、誰が何を言っても、それは善い意味で「異なり」です。

 

例えば、

誰かの教えや話し等が自分の認識とピッタリ一緒だったり、

その一致度に快適性を求めているのでは成長につながりにくいこともあります。

 

わかりやすいということが自己の成長を支えていくわけではなく、

様々な物事を本来の自分において多様な視点からズラして捉えながら、

それを自己内で育んでいけるような感覚、これが自己受容などにつながることもあります。

 

他者と異なりがある、驚ける、

だからこそ意味が深まっていくのだと考えています。

 

これを下支えするのはそのひとが抱く「本来感」であるという考え方ができると思います。

「本来感」については筑波大学に関係する伊藤正哉先生、小玉正博先生(埼玉学園大学)が研究されている内容がありますので、関心のある方は検索してみてください。