先日、ある体験型ワークに参加をした際、
「ひとはやっぱり人に興味を持ついきものなのかもしれない」
と私がグループ内で呟きました。
※この記事では要点が伝わるだけに留め内容を加工しています。
ワークショップでの学習体験をそれぞれが持ち帰って、
独自に勉強会やSNSなどで不特定多数の人と共有する際、
使用項目や共有内容等の情報をワークショップ主催者に利用許可を得る必要があり、
ブログ掲載を認められた内容のみに絞って記事にしています。
記事に戻ります。
「かもしれないということが大切なのかもしれない」
そんなスタンスを大切にして呟いたことなのですが、
興味深いことに、
「自分は自分、他人は他人だよ。
実際、多くの人は他人には興味なんかないんじゃないか」
「ひとそれぞれだよ」
といった反応がありました。
ここからは今の私の考えを書いていきます。
善し悪しは関係なく、
普段の仲間との会話であれば特にそれ以上、
それほどあれこれ考えず(まぁ、そりゃそうだよね)
くらいの話しで落ち着く感じかもしれません。
私の中ではキャリア形成支援に置き換え考えてみることも必要だと思い、
自分なりに様々な現場体験を振り返りながら自分の中でメモをつくっています。
例えば、
時々出会うお話しにもなるのですが、
(ひとに興味をもてないのであればSE職がいいとか、
工場のライン職、トラック運転手、黙々と作業に打ち込める職人…等が合っている)
仮にこのように見立てる場合、
そうした仕事は、ひとに関心が薄くても仕事ができるという発想なのかもしれません。
※決してそうではないと考えますが、それはその人の専門家としてのあるレベル感での経験や傾向等から発していることもあると思います。
反対に
(ひとに興味があるならば接客業がいいよ、周囲の人と話し合いが頻繁にある職種がいい、他者のお世話をする仕事がいい…)
このように言う場合があるかもしれません。
このような日常的に起こり得るバイアス的な感覚や認識が、
キャリアコンサルタントとしても大なり小なりあるとすれば、
キャリアコンサルティング面談や事例指導の面接自体にどのような影響を及ぼすでしょうか。
実際、現場ではこんな見立てがクライエントにとって不利益になっていることもあり、
また、キャリア形成支援者側がそれに全く気がついていない場合もあるかもしれません。
確かにクライエントの状況や言動等(クライエントがもつ経験等含む)からして、
専門家の大半の方が観て、
このクライエントは人との接点が苦手そうだとアセスメントできたとします。
本来ならそのクライエント自身が(わたしはひとに興味がない)と発言したとすれば、
その背景や意味が必ずあるはずでしょう。
実際はひとに興味がないという言葉を発しただけであり、そうではないかもしれません。
その言葉を他者であるキャリア形成支援者に今ここで発したその人に、
一体なにが起きているのかをわかろうと努め続けていくからこそ、
右往左往しながらもその人を主体にしてわかり合えてくる瞬間が訪れてくるものだと思います。
支援者である私たち自身が目の前のそのひとに全人格をもって興味関心を注ぐことになる。
そうした態度はクライエント自身の変化にも影響します。
最初のお話しに戻りますが、
ひとの感情が動くときというものは、やっぱり人がかかわる。
その多くの場合、言語・非言語を媒介にしてメッセージを送り合う、受け取り合うこととなります。
他者から褒められて素直になれたり嬉しく思えたり、
人から裏切られたりして嫌な気持ちになったり悲しく思ったり、
やっぱりひとなんですよね。
善し悪し抜きに、
一人では生きてはいけないこと、
これは大なり小なり誰でもわかっているように感じることがあります。
なぜわざわざ(わたしはひとに興味がない、関心がない)
ということを言葉や態度で示すのか。
そのひとにしかわからないなにかがあるのだと思います。
誰かにわかってほしいのかもしれません。
受容とか共感というスキルや態度は、
相手のその言葉自体を自分の解釈や一般論で受けとめることではなく、
私たちが知覚できたことをその人の立場をイメージしながら多視点的にみて感じてみたり、
なぜ、どうしてかを自問自答してみたりしてなんとか言葉にする努力を試みていくことも大切なのだと思います。
こうした土台ともなるひとへの関心や興味にかかわる考え等は、
事例指導者自身が大事にできている必要があるのだと思いました。
ここがもし足りないとなると、
事例相談者への育成的なかかわり自体、なにかズレてくることもあると思います。