前回ブログでは、ジョージ・オーエルの傑作小説”1984”で予言された近未来の監視・管理社会が現実化し始めたことを、僕が昨年末中国で経験した本パンデミック後のこの国の豹変ぶりを例に挙げて説明しました(O_O)

 

中国は元々全体主義的なので、本パンデミック後に世界中で起こりつつある統制・管理社会がいち早く顕著に出現したのでしょうが、つまり今後日本を含めて多くの国々がその方向に進んでゆくはずです。。

 

その証拠に最近、埼玉県在住の友人から写メが送られてきて僕は大変驚きましたが、何故ならその写メには埼玉県の繁華街にある居酒屋が写されていて、そのお店入り口の張り紙には”ワクチン接種証明書及び身分証明書を提示しない方にはお酒類の提供出来ません”と書いてありました(゜◇゜)ガーン

 

つまり日本でも次第にワクチン接種義務の波が出現し始めたようで、そのうちヨーロッパ諸国のようにワクチン接種証明書を提示しないと、レストラン入店も出来ない事態がやって来るはずで、既にその試験段階が始まったのでしょう。。

 

”国民全体がワクチン接種を行うと、集団免疫を形成し本パンデミックに打ち勝てるので接種拒否者は身勝手だ”との意見もありますが、僕はその意見に警鐘を鳴らします。。

 

何故なら、今回のようにmRNAを用いたこれまで人体未使用の新ワクチンを、動物実験で安全性を確かめることもなく緊急使用しているのでその安全性は保証されておらず、実際2021年2月~2022年1月までの1年間に、本ワクチン接種後死亡疑いケースが1,500件近く発生しているからです。。

 

しかも本ワクチンは義務接種ではなく、あくまで緊急事態下での自主(自己責任)接種なので、たとえ本ワクチン接種と死亡の因果関係が認められても国はその死亡に免責、つまり亡くなった方は国やワクチン製造会社を咎めることも出来ず、所謂”死に損”のような状態に陥る可能性もあります。。

 

確率はごく僅かでも本ワクチン接種には一定のリスクを伴い、しかも将来的にどのように作用するか全く未知のワクチン接種を行うかどうかはあくまでも個人判断に委ねるべきで、その選択の自由を与えるのが民主主義の大原則なはずだからです。

 

今回のテーマを始める前にすっかりワクチン話で白熱しましたが(^_^;、このように世界が全体主義へ向かう潮流の中で、今までのようにテレビ・マスコミの言いなりとなり、”皆がそっちへ行くなら、僕・私もそっちへ行って大丈夫”といった無思慮な行動は大変危険で、それこそまるで羊の群れが羊囲いに追い込まれる如く簡単に全体主義へ陥りかねません(O_O)

 

そうなると我々は、全体主義を目論む世界実現のため否応が無しにまるで奴隷の如くあしらわれ、自分自身の幸せ追求どころかそれとは真逆へ進む結果となりかねず、今まさにその判断が迫られている気がしてならないのです(>_<)

 

では管理統制・全体主義に陥らないにはどうすべきかですが、それは1人1人がより思考力を働かせて賢明な選択をすることで、もしそのような人たちがこの世界の大多数を占めると、全人口の2パーセント程度で構成される支配者?たちの目論みは一気に崩れ去るはずです。

 

話が陰謀論っぽくなってきたのでこれ以上の深掘りはこの辺りで止め、次回は上述のいかに思考力を高めるべきかや、本来我々1人1人に備わっているはずのプライスレス(極めて貴重)な潜在的個人価値について考察し、本テーマを収束に向かわせようと思います(^_^;